BSアニメ夜話 「ゲーム的リアリズムの誕生」

母をたずねて三千里(監督:高畑勲)』以外『装甲騎兵ボトムズ(監督:高橋良輔)』、『時をかける少女(監督:細田守)』、『番外編精霊の守り人(監督:神山健治)』は見ました。
やはりBSマンガ夜話と比べて内容的に薄かったけど、今回は筒井康孝先生がゲストに来てくださったというだけで、見た甲斐があったと思っております。後、病的に激ヤセしている岡田斗司夫の姿も、昔を知っている人間にはショッキングな映像でしたが…

以前にBSアニメ夜話「時をかける少女」 - WebLab.otaでタイムパラドクスの矛盾点について解答してくれないものかと書きましたが、江川達也曰く「そういったことを考えずに見るアニメ」だそうでして、流石にアニメの見方が広いなぁと感心いたしました。私はそれほどアニメの見方が広くないので、いろいろと書き散らしてしまいました。

さて、今回は筒井康孝先生が散々云っておられた「ゲーム的リアリズム」について考えようかと思います。

これは、大塚 英志がキャラクター小説の作り方で投げかけた

映画やまんがやミステリーが人の死を記号的にしか描けないという限界を自覚した上で「現実」との関わりを模索しているのに対して、「ゲーム」や「ゲーム」を出発点とする「ゲームのような小説」はその努力がぼくには乏しいように思えてなりません。「ゲームのような死」の表現方法の先に、リアルな人の死(それはリアルな生、の裏返しでもあります)をいかに描きうるのかやはり小説の一分野であるこのジャンルの作り手は考える必要があります。

という問に対して、東 浩紀がゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2で提唱した考えで、要約すると「キャラクターの死を書くことのできない繰り返し(リセット)が可能なゲームでも、その繰り返しが終了するというメタのレベルでは死が描けるのでは?」というものである。(マジ要約が難しい、訳のわからん論なので、本買って読んでください。この要約では漏れ過ぎてるし、怒られそう)

筒井康孝は今回、この”ゲームのような繰り返し”で文学的な昇華ができるのではなかろうか?という試みについて語っておられましたが、どうも違和感を感じずにはいられませんでした。

時をかける少女をめぐる愚痴 - 最果て系×××れたセカイなんかでも、その違和感を感じていらっしゃるようで、「文学、文学」ってのに引っかかってしまう。

そもそも、前提となる文学が雲散霧消してしまった後に生まれた私にとっては、筒井がいうところの”文学”が真の意味で理解できていないし、SFを捨てて、ある種文学に啓蒙してしまった筒井という偏見もあるためか、斜に構えてしまう。
まぁでも、もし仮に文学ってのがまだあるとすれば、ゲーム的リアリズムが文学的課題にはなりうるであろうとは思います。

しかし、ゲーム的リアリズム美少女ゲームの中から発見された文学性であるというところには危機感を覚えずにはいられない。
東浩紀ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2ゲーム的リアリズムを説明する上で使用した『ONE』や『Ever17』や『ひぐらしのなく頃に』の中に、文学では無いにしろ、後に文学になりうる可能性を見出した訳だが
まず、留意しなくてはならないことは、その文学性は、作者も読者も、それを文学だとは全く思っていないということだ。先ほども述べたが、これらを作っている・これらを消費している私と同世代の若者はそもそも文学を知らないのだから、自覚しようが無い。
そして、東浩紀大塚英志も(特に大塚英志は)、現時点では「ゲームのような小説」は、文学ではないと述べているし、大塚 英志に至っては、現在の作家の向上心の無さに怒りすら感じている。

また、「ゲームのような小説」が、繰り返しを好んで使うのは、単純に生産システムに規定されている点にも注目すべきだ。(次回にでも言及する)

だから…安易に『美少女ゲームが文学的である』と勘違いをするなと云いたいわけです。



参考
■BSアニメ夜話 細田守『時をかける少女』 筒井康隆、アニメにおける文学の可能性を毒とともに語る: ★究極映像研究所★
筒井康隆氏についての…