ラブライブ!の嘘とドキュメンタリー 〜花田十輝と京極尚彦の狙い〜

ラブライブ!が10話までやって来ました。
さて今回は、ラブライブ!9話・10話を中心に、嘘やハッタリ感と、現実というかドキュメンタリー風なエピソードが入り混じった物語の面白さを語っていきたい。

スノハレ回のヤバさ

ラブライブ!2期9話の何がすごいのか - 映像の原則から読み取る -:告白Pの色々やってます - ブロマガ
公開されるなり茶番だなんだと言われたラブライブ!2期9話。

見ていない方に簡単に説明しますと、なにが茶番かと言えば
・いきなり猛吹雪の中、走っていくしかないという状況になる
・たかが学校から出るだけなのに死にそう
・とってつけたようなシリアス
などといった要素が挙げられます。

うん。
まぁ確かにすごかった9話。
暴力的な脚本に狂ったようなシーン構成。ツッコミを入れようと思ったらいくらでも入る回だったことは確かだ。
しかし、それは1期からそうだった。

虚実皮膜を行くラブライブ!

1期1話でこんなことを書いた。

ラブライブ!を花田十輝から読む - WebLab.ota
さて、そんな花田十輝からラブライブ!の1話を見るとどうだろうか?
結論から言えば、主人公たちが直面している危機(廃校)も、語られる思い出もすべて最後の歌とダンスを見せるために用意された虚構ではないか?という話。

この、「ああ、これからいったいどうすれば」「どうすれば」「どうすればいいの?」「(歌)だって可能性感じたんだ、そうだ進め。後悔したくない。目の前に僕らの道がある」のシーケンスに突然突入するところは、どっからが本当にあった話で、どっからが脚色・後日撮り直した(と思われる)シーンなのかさっぱりわからない
まさに虚実皮膜なシーンである。

1期3話のときもこんなことを書いた。

ラブライブ!はリアルじゃないところに凄さがある - WebLab.ota

徹底した嘘(虚)の先に辿り着く場所

マンガ☆ライフ |『ラブライブ』に存在する「ゆらぎ」について
しかしそもそも『ラブライブ』というコンテンツは「現実にμ'sがいる」という想定でコンテンツを展開してきている。
前述したような演出から考えると、アニメ版は「事実を元にしたドキュメンタリー風ドラマ」という創作作品で、台詞が繋がっている事や芝居がかった演技をしているのは「この作品がドキュメンタリー風ドラマである」ということを意識させるための演出であり、一話のEDで穂乃果達が踊れている事も「アイドルとしてデビューした後の三人が実際に踊っている」と考えると納得がいく。

「現実にμ'sがいる」という想定→根底の嘘
そのμ'sのドキュメンタリー風ドラマ=アニメ→嘘の嘘
アニメの物語上の日常=今の穂乃果達→嘘の嘘の日常
アニメの物語上の夢=一話のED(PV)→嘘の嘘の夢
アニメの物語上の乗り越える壁=1stライブ→嘘の嘘の現実


彼女たちは嘘(虚)の世界に生きている。しかも、1stライブの描き方、日常シーンの描き方から、自覚的に嘘(虚)の世界で生きることを強いられている。
嘘に嘘を重ね、その中でウソっぽい日常で嘘の夢を見ながら、嘘の現実に負けるのである。

このハッタリ感に対して、否定的な人ももちろんいた。

なんでみんなラブライブ!ってデタラメアニメ見てるの? 脳がスポンジなの? - 藤四郎のひつまぶし
こんなでたらめなのになんで?
この辺説明できんの?
どうやって納得してんの?
おじさんにはマジ無理だわ〜('A`)y-~

ラブライブ!を花田十輝から読む - WebLab.otaラブライブ!はリアルじゃないところに凄さがある - WebLab.otaなんかは脚本花田十輝からラブライブ!のハッタリ感や嘘について書いたけれど、
1期13話で監督京極尚彦も自信満々に嘘をつく人だということが判明した。

ラブライブ!の京極尚彦監督コンテ演出について考える - WebLab.ota
で、一番最初に引っかかるのはやはり、ラブライブ13話(京極尚彦コンテ回)のこのシーン。

どういう時間の流れで、空港から講堂のライブシーンに繋がるのかよくわからない。
(中略)
「当日いきなりの告知でこんなに人集まらないんじゃ?まして親御さん見に来てるし…ということは、かなり前から穂乃果・ことりに隠してライブの準備してたんじゃないのか?」とか
「ことりちゃんの制服はいったいどこから……一度家に帰ったのかしら?」とか
「ことりちゃんの髪型変わってるし(リボンがついてる)」とか……
ってんで、時間経過がよくわからん。無理やり考えれば理屈は付けられるんだろうけど、その理屈を説明するカットを本編では描いていない。


というか、この「時間経過がよくわからない」「居るはずのところに居ない・居るはずのないところに居る」というのが京極尚彦コンテの特徴のような気がする。

こんな感じでもともとラブライブ!って脚本の自然さとかシーンの前後のつながりとかより
面白さとか伝えたいメッセージとかを優先するような作品なんだよね。
それが、スノハレ回みたいな形で爆発することがある。
だから、いまさら「リアリティがない」とか「超展開」とか言われても、ずっとそうだったし、何を見てきたんだ?ってなるよね。
まぁ、花田十輝京極尚彦も「嘘つくとき」に、言い訳あんまりしないし、容赦がない嘘をつくし、乗り切れない人を置いていく気満々なので、着いて行くのが大変だって指摘はわからなくも無い。
私はそんなロックな姿勢が大好きなんですが。

ドキュメンタリー

まぁラブライブ!の嘘・ハッタリ部分についてはこんな感じでとりあえず置いておくとして
2期で特筆すべきは、そんな嘘・大嘘の中に散りばめられているドキュメンタリーなエピソードの数々である。


例えば、2期10話の絵馬。これは「あー見たことあるなぁ〜」って思うし、人によっては「俺が書きに行った時と一緒だ」って思うところ。

例えば、スノハレのUO演出。これは、スノハレのPVからのパロディではあるけど、ライブで毎回やってる演出でもある。
このUO演出が成功するかしないか?は、ライブ参加者が全員ハラハラしてるし、「失敗するわけにはいかない!」って決意してるところ。


例えば、2期9話の大雪。これも2014年2月8日にさいたまスーパーアリーナに行った人はドキュメンタリーに見えたはず。
「東京で大雪?降るんですよ、降ったんですよあの時は。みんな必死でライブ会場目指したんだよ」と共感さえ覚えるところ*1

例えば、2期10話の「みんなで叶える物語」もラブライブ!企画当初(電撃G'sマガジン2010年7月号)からのキャッチフレーズ。
ついにここまで来たか……と感慨深いところ。

ついでに、アニメラブライブ!の物語内時間の流れは、大体2010年〜2011年ごろの現実世界のラブライブ!というコンテンツの流れと一致してる。

(参考:ライブも近いからラブライブ!について勉強する - WebLab.ota)
これ以外にも、秋葉原の町並みとか神田明神とか聖地巡礼的な部分も多々あって、作品内のリアリティを下支えしているわけだけど
ドキュメンタリーな部分は、我々(ラブライバー)の経験・体験した時間であったり、我々(ラブライバー)も参加してあの日・あの時を一緒に感動した時間であり、タダの聖地巡礼とはひとつリアリティの質が異なる。
ある種、「俺達(の時間・経験)がアニメに映ってる!」って感動かもしれない。

ドキュメンタリーな部分の演出はラブライバー以外が見ることを拒否している

1期でも確かにPVのパロディをふんだんに散りばめてあった。
2期もスクールアイドルダイアリーからのネタとかいっぱいあった。
でも、「知らない人も楽しい、知っている人はより楽しい」ってネタだったり、演出だったりで収めていたと思う。


しかし、2期9話と10話はそーゆー次元を超越していた。
例えば、絵馬のシーン。

絵馬登場(中央図)から絵馬の内容がわかるまで(右図)6カットもかかってる。時間にして約14秒。
しかも、絵馬が登場したシーンから意味深なBGMが流れ出している。
ここからわかるのは、「絵馬が出てきた→ファンの書いた絵馬だ」が即座にわかる人間に向けて演出しているという気づき。
もうちょっと見る人に優しく演出するのであれば、絵馬の内容が写ってからBGMを変えるか、絵馬登場の1カット目から絵馬の内容がわかるような絵にすべきではないか。
また、UOの演出もラブライバー以外の人にあのシーン見せても、何が感動的なのか、泣けるのかわからんと思うんだよね。
特段、すごい作画でもないし、演出があったわけでもない。
「みんなで叶える物語」というキャッチコピーも、ラブライバー以外が見たら「あれを考えるだけで1話まるまる使ってしまうの?え?何も進んでなくない?」って成りかねない。
魔法科高校の劣等生みたいな毎回わかりやすくて、カッコイイ引きに慣れている人たちに対して、あれじゃあ訴求力無いし、来週また見ようって気にできないだろう、ということは想像に固くない。


でも、あえてそうやって演出する。
分からない人は置いていく。そんな説明をいちいち入れるのが面倒臭いし、テンポが悪くなってしまうじゃないか。
これが花田十輝の選択であり、京極尚彦の選択なのだ。
嘘・ハッタリのときと考え方が一貫してるところが面白い。

スノハレ回の特殊性

スノハレ回の「嘘」の部分については、前段で書いたとおり、1期と基本的に変わっていないと私は思っている。
でも、「ドキュメンタリー」な部分については今までと違うことをやっている気がする。
なんか、すごい勢いで加速してる感じ。今までと違って置いて行く気満々な花田十輝京極尚彦が見える感じ。
たぶん、スノハレ回を超展開とか言っている人たちは、この「全力で走りだした」ってのに皮膚感覚として気づいたんだろうなぁ〜

*1:この脚本が、ライブ前に上がっていたというのが奇跡。このへんも面白い部分ではある。花田十輝的にはこれ「嘘」「大嘘」のつもりなんだろうけど、現実がそれを追い抜いてしまったという稀有な例として記憶されることだろう。