とある科学の超電磁砲の持てる者と持たざる者とバランスについて

とある科学の超電磁砲 第9話感想・考察個人的まとめ - WebLab.ota
持てる者と持たざる者と真に持てる者 - WebLab.ota
の続き.

バランス

今回は,「持てる者・持たざる者」という違い・対立があるフィクション世界の,両者のバランスについて考える.
で,まず「バランスって何?」ってところから書く.つってもよくまとまってないんだけど.


まず,私が「とある科学の超電磁砲は,持てる者と持たざる者のバランスが悪いなぁ〜」って感じてるところが出発点.
なんで「バランスが悪いなぁ〜」って感じてるのかっていうと,たぶん,感情移入できるぐらい魅力的な持たざる者(佐天)が登場しているのに,「絶対にこの世界の持たざる者にはなりたくないなぁ〜」って思うのと,「この世界の持たざる者はどうすれば救われるんだろうか?」って考えてしまうところなんだろうと思う.
普通,この手の作品で持たざる者が出てきても,「持たざる者は持たざる者で幸せを見つければいいんだよ」といった高度経済成長以降の「豊かさは良いことではない.もっと生きがいを」的な考え方で救えてしまったりするんだけど,それができない.


何故できないのか?というと,とある科学の超電磁砲の世界では,圧倒的に「持てる者」が「持たざる者」より地位が高いからってのが「まず」ある.
絶対可憐チルドレンの世界のように「持てる者」は「持たざる者」に管理されている存在でもないし,力の行使の制限もなく,いい学校に通える.
トップ2のように「アガリを迎えることの恐怖」に怯える心配もない.

非生産的

一方,この世界の「持てる者・持たざる者」は,どちらも非生産的だったりもする.
というか,どっちも「至極真っ当な大人になる」ってビジョンが見えない
度々比較するが,絶チルの世界では,「能力者としてこういう大人になるべき」とか「能力を使って社会貢献しよう」ってビジョンがあるけど,とある科学の超電磁砲にはない.
尊敬すべき大人の姿が見えない.

多様な価値

加えて,価値観の多様性みたいなものが描けてない.
また絶チルの話をするけど,絶チルの世界では,「念動力は災害現場とかで救急活動に使える」とか「サイコメトリーは,医療現場や警察の捜査に役立つ」といった風に「それぞれの能力にそれぞれ違う価値があって,どれも大切なんだ…」って個性を尊重しているというか,多様な価値を認めてる.(ジャッジメントのみが例外?)
しかし,とある科学の超電磁砲の世界では,上述した非生産的だってのがあるせいで,「高レベル能力者になること」が目的化してしまってて,「レベルが低くても使える能力なんだからいいじゃない」って考え方がない.
この思想は,「持たざる者」にも強要されてる.


上述した「豊かさは良いことではない.もっと生きがいを」的な考え方で佐天さんを救えないのは,この世界が多様な価値を認めてないからなんだろうとか今思った.

上条さんについて

「高レベル能力者になること」って価値から完全に逸脱してるのは,上条さん
彼は,「日々を穏やかに過ごすこと」を心情としてて,向上意欲とか無い.煩悩がないと言ってもいい.
解脱してる.もう悟りの域だ.
やつは,「高レベル能力者になること」って価値の外にいて,「高レベル能力者になること」って価値以外を象徴しているんだろうけど,あまりに解脱しすぎてて,佐天さんに「あそこまで浮世離れしろ」とはとても言えない.

まとめ

とある科学の超電磁砲のバランスが悪いのは

  • 持てる者にデメリットがない
  • 非生産的であること
    • レベルの高低以外の価値観がない
  • 多様な価値観が認められてない
    • 「レベルが高いこと」が絶対的な価値になっている.
      • そのため,「持たざる者は持たざる者で幸せを見つければいいんだよ」という理屈が通用しない
  • 以上のような状態にも関わらず,話が抽象的でない.(ウテナみたいに影絵少女が出てくるほどでない)