京都アニメーションは本当にすごいのか

○私は最近頓に使われるようになった「京アニクオリティ」という言葉に疑問を感じるものであります.
○「京アニクオリティ」という言葉の使い方に疑問を感じるものであります.

京アニクオリティという言葉は京都アニメーションの作ったアニメを賞賛するときに用いられる言葉である.

○作画に対して,京アニクオリティという表現が用いられる場合がある.が,私は過度に賞賛するに値するほどのものではないと思っている.
○アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」のEDのダンスも,人体の動きを正確に表現するという点で評価するならば,ジブリ作品のほうが賞賛されるべきである.
キングゲイナーのOPのダンスのほうが賞賛されるべきである.
○アニメならではの動き(アクションシーン他)も松本憲生には遠く及ばない.
○アニメならではの動き(爆発シーン他)も吉成曜には遠く及ばない.
○アニメならではの動き(想像力豊かなシーン構成)も大平晋也には遠く及ばない.
○もし京都アニメーションの作るアニメの作画が賞賛されるべきものであるなら,金田伊功のような有名原画マンが登場するはずである.
○背景に対して評価している人もいたが,最近のアニメでは当たり前である.蟲師もそうであった.
○80年代以降,アニメはキャラクターに線を入れるのではなく,背景に線を入れることにより,リアリティを獲得してきているのだから.
○音に対して評価している人を見かけたが,最近のアニメでは当たり前である.水と光のダフネでさえやっていた.
○3Dに対して評価をしている人もいるだろう.しかし決してイノセンスにはなれぬ.

京都アニメーションはどの分野においても,ある程度評価できるのだが,まだまだ現時点での最先端には届いていないように思える.
○しかし京都アニメーション全体としてみると,現在のアニメーション製作会社の中では,そこそこの評価ができるとも思っている.まさに全体としてクオリティ(完成度)が高いのである.
○そういう意味では京アニクオリティという言葉は正しい.
○最初「京アニクオリティ」と言葉を聴いたとき,なぜ「板野サーカス」や「金田飛び」といった具合に個人の名前が付いていないのか疑問に思ったが,京都アニメーションは才能を持った個々で評価するのではなく,集団として評価するのが正しいのである.

京都アニメーションは本当にすごいのか?part2

>2006 12/24
今回は前回の京都アニメーションは本当にすごいのかの続きです.
また友人からの抗議文In My Room(´ー`) :京都アニメーションは本当にすごいのかとIn My Room(´ー`) :京都アニメーションは本当にすごいのか2を受ける形で書きます.
では抗議文の上から順に答えていこうと思う.
まずはこの一説から

さて、この記事を読む限り、京アニに対して否定的な部分も見受けられる。

いきなりだが,この解釈は私の本心ではない.
もちろん悪意をこめて書いたし,京アニ信者が読んだら不快に思ってもらえるように書いたつもりではあるが,京アニを否定する意図は無かった.
私の意図以上に,あの文章が働いたとすると非常に悲しいが,そういう誤解を未然に防ぐために,冒頭

○私は最近頓に使われるようになった「京アニクオリティ」という言葉に疑問を感じるものであります.
○「京アニクオリティ」という言葉の使い方に疑問を感じるものであります.

と,書いておいた.これを読んでおられたのなら,このような誤解は生まれなかったのではないかと思っている.
また,この件が私の希望通りに働いてくれなかったのでは無いかとも思っている.そう思うと悲しい.

作画を評価しているサイト等は俺は知らない

京都アニメーション」+「神作画」というキーワードでのダブル検索によって証明しうると思っている.

たとえば3Dに関して「イノセンス」と比較しているが、それはJazzのピアノソロとJ-popの打ち込みピアノを比較するようなものでは無いだろうか。
京アニの見所は3Dでは無いが(J-popの打ち込みピアノ)イノセンスの見所は間違いなく3D(Jazzのピアノソロ)なのだ。

少し補足すると,イノセンスは3Dで世界に認められようとし,認められた.
京アニはそうではなかった.
これは作画,音,演出,背景等でも同様なことがいえる.

集団として評価するのが正しいのならば、個々を比較して「3Dのこの部分が劣っている」と評価するべきでは無いだろう。

私は集団として評価するのが正しいということを証明するために,個々で比較したのです.


(今までは京都アニメーションを程度はどうあれ,賞賛すべきであるという立場で書いている.)

全体としてみれば最高峰のレベルをもつ会社である。

これが問題なのである.私が

現在のアニメーション製作会社の中では,そこそこの評価ができるとも思っている。

と言葉を濁して,また根拠無く無責任に書いたのは,私自身京都アニメーションをどう評価するのが正しいのか解っていないからだ.
(私は今まで「集団としての評価」というものが盲目的に”ある”,と仮定して書いていたが,その仮定そのものに疑問を感じ始めている.)
つまり「先端」であるという評価ができないからだ.
原画貧困時代に演出を発見し,アニメが表現しうる幅を広げた出崎統や,毎回イメージ豊富な原画を描き,そのパートが放送された次の週には若手アニメーターに真似された金田伊功等は,その当時先端であったという評価が可能であるが,京都アニメーションはそういった評価軸では評価できないのである.
正直,京都アニメーションを賞賛している人々が,いったい何を根拠に賞賛しているのか解らなくなってきている.

もしここに新たな評価軸として「平均化」を加えると,京都アニメーションを正しく評価できるようになるかもしれない.
近い将来,この「平均化」という評価軸が確立すれば,京都アニメーションを正しく評価できるようになるかもしれない.

だが私はアニメファンとして,やはり「先端」という評価を好む傾向がある.
まだ見たことの無い斬新な動き.まだ見たことの無い構図,演出を好む傾向がある.
そして今のアニメーションの評価はこれである.
そして京都アニメーションの作る作品は,どこか既視感を覚えるものばかりで,目新しさに欠けている.
もちろんこの「平均化」という評価軸は感覚的な言葉で,根拠や定義は存在しない.