ゲームのせいではないだろうけど,練習道具程度にはなっているかもしれない(ゲームが忌み嫌われる理由)

茨城県土浦市で通行人の男女8人が男に包丁で次々と襲った金川真大容疑者は「ゲーマーとして有名」(知人)で、最近は自宅にこもりきりでゲームざんまいという日常を送っていた。また金川容疑者は犯行前日の22日夜、“オタクの聖地”東京・秋葉原に潜伏し、「変装目的」で散髪し丸刈りにしていた。
(中略)
事件現場そばのショッピングセンター3階のゲームコーナーによく通っていた。格闘技ゲームで負けると「何だよ!」と声を上げ、ゲーム機をけり上げることも。「キレやすい性格」だった。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080324/crm0803240828007-n1.htm

痛いニュース(ノ∀`) : 父から「仕事に就け」で“逆切れ” 8人殺傷の金川容疑者 - ライブドアブログ
http://www.zakzak.co.jp/top/2008_03/t2008032410_all.html

という事件に対してマスコミは例のごとく「ゲームのせいだ」と喚き散らしているらしい.
私もゲームがこの事件を引き起こした直接の原因だとは思わないし,無責任に「こーゆーことはやる奴はやるんじゃね?」とか「なんで人が自分を殺したとき(自殺)は,”いじめ”だとか”職場でのストレス”だとか”人間関係”といった原因になるくせに,人が人を殺したときは”ゲームのせい”になるんだろうか?」と不思議に思う.だから,『人を殺したり,傷つけたくなったりする』動機や原因は”ゲーム”にあるのではなくて,他にあるのだろうと思うわけである(でもゲームが原因の一端,ほんの一端ぐらいは担っていると思う.が,これはすべての表現が持っている可能性である).


しかし,何らかの原因で『人を殺したり,傷つけたくなったりした』時に,それを実行に移す前に,その犯行のイメージをより確固たるものにするためだったり,予行演習・練習道具としてゲームを利用している可能性はある,とも思う.

予行演習・練習道具としてのゲーム

まず断っておきたいことは,『予行演習・練習道具としてのゲーム』というのは,電車でGO!グランツーリスモをやって,電車を運転してみたくなったり,車を買いたくなったり,メタルギアをやって無意味にストーキング紛いのことをやってみたくなる…ことではない.
これらは『動機や原因としてのゲーム』であって,情熱的な不倫を描いている小説を読んで不倫をしてみたくなったり,ラブコメを読んで恋愛がしたくなったり,囲碁漫画を読んで囲碁を習い始めたり,人気アイドルが飛び降り自殺したから後追い自殺をしてみたくなったりするのと同じで,すべての表現が等しく持っている可能性である
今回書きたいのは,この可能性についてどう捉えるか,という問題ではない.


『予行演習・練習道具としてのゲーム』というのは,自動車教習場においてあるゲームだったり,航空機の練習用ゲームのことを指す.いろんな目的に沿って,いろんな状況を擬似的に作り出し,状況に応じて適切な対応が取れるかどうかを確認したり,反復してプレイすることで最善な手順を覚えたり,導き出したりするために使われるゲームのことを指す.
ここで重要なのは,『予行演習・練習道具としてのゲーム』という可能性は,表現一般が”等しく”持っている可能性ではないところにある.確かに,小説や映画を繰り返し見ることで,疑似体験を重ねることはできるが,やはりその効用は薄いように思うわけである.
何故なら,「教科書や体験談を読んだり聞いたりしてイメージトレーニングする→ゲームを使ってイメージトレーニングする→実際に乗ってみて訓練する」という手順がとられ,表現一般よりリアル(経験)に近い存在としてゲームは認知されているように見えるからである.


つまり,マスメディアがゲームに対して,他の表現一般に比べてネガティブである理由は,ゲームが『動機や原因としての表現』という表現一般が持っている可能性に加えて,『予行演習・練習道具としてのゲーム』という可能性を秘めている…だから,他の表現一般に比べてリアル(犯罪)への影響力が大きいのではないか?と考えてしまっているのではなかろうか?

ゲームを脅威(だと感じる)=『動機や原因としての表現』+『予行演習・練習道具としてのゲーム』