ギャルゲ嫌いな人間がギャルゲを楽しむための方法 『桃華月憚』 その1

今回は”ギャルゲをどうしても楽しめない人”や,”面白いと感じたことのない人”に,「こういった見方をすればギャルゲを楽しめるのではないか?」という提案をしたい.
が,今回はその前提となる,「ギャルゲを嫌う理由」を説明するだけで終わってしまった.楽しみ方は次稿で説明する.


何を隠そう,私もギャルゲが嫌いである.
特にストーリやシナリオが評価されていたり,泣きゲという括りで勧められる作品や,ノベル系というジャンルが嫌いである.といってもそれ以外のゲーム一般をやらないので,ギャルゲに限らず,ゲーム全般が嫌い(というよりできない)な人間でもあるのだが…
RPGはもちろん,シューティングや格闘ゲームも基本的に嫌い(続かない)だ.だから,ギャルゲ(ここでは主にテキスト重視のゲーム)もゲームが嫌いだから嫌いなのだろう,と云われることもあるのだが,主にテキストで構成されているギャルゲを嫌う部分は,そういったゲーム一般を嫌う部分とは別にある.先ずこの辺りを説明してから本題に入りたい.

ゲーム一般を嫌う理由

ゲーム一般(ここではRPGやシューティングなんかを指します)を嫌うのは,一々レベルを上げたり,一生懸命やり込んでテクニックを身につけることに意味(楽しみ)を感じないところにある.これは,私が物語を主に消費する消費者であるために,物語を読むために一々まどろっこしい手順を踏みたくないという志向に依るところが大きい.
東方なんかで説明すると,あんな無茶な弾幕を避けるテクニックを手に入れなければ,戦闘前の会話が読めないのが辛いのだ.普通に東方を楽しんでいる方々は弾幕ゲームを楽しみ,会話も楽しんでいるけれど,私は弾幕は唯の作業でしかなく,会話だけを楽しもうとしているわけだ.ちょっと考えれば(考えなくても解るけど),楽しむには無理がある.

ギャルゲを嫌う理由

しかしギャルゲ(ここではテキスト重視の作品を指します)はこの点で違う.弾幕を避けるテクニックなんて磨かなくても,非常に簡単な選択肢さえ適切に選んでやることさえできれば,物語を読むことができる.
それでもやはりギャルゲは嫌いなのだ.何故か?嫌いな点はいくつかあれど,今回は簡単に以下の3つで説明していこうと思う.

  • マルチエンド・マルチストーリであること
  • 複数のストーリを選択可能であること
  • 複数人のシナリオライターによって書かれてあること

”マルチエンド・マルチストーリであること”と”複数のストーリを選択可能であること”はほぼ共通した理屈によって嫌いなのだが,先ずは”マルチエンド・マルチストーリであること”から説明していく.

マルチエンド・マルチストーリ

”マルチエンド・マルチストーリ”を嫌うのは,簡単に言えば”どのストーリを読めばよいのか解らない”からだ.


ストーリを分析的に読んでいくと,ストーリのテーマ(主題)や収束するべき方向みたいなものが見えてくることがある.小説を読むときも,そうしたテーマ(主題)や収束するべき方向を見定めながら読んでいく.
そうすると,たまにテーマとズレた結論や収束するべき方向とはズレたところに無理やり着地させる作品がある.そうした時,読者は「何故,作者はこういった結論を導き出したのか?」と考える.
こういった問に対して,自分の中で答えを導き出せるときもあるが,作者自身が書評やあとがきで「テーマに対するアンチテーゼである」とか「今の社会に対する疑問を投げかけた」といったコメントを出していて,でっかい問題意識を持って主題を敢えて捻じ曲げていることを知り,感動することが度々ある.


しかし”マルチエンド・マルチストーリ”ではそれが解らないことが多い.テーマとズレた結論を出しているストーリとテーマに沿った結論を出しているストーリのどちらも存在するからだ.
この場合先ず,作者がどちらのストーリを本当の意見として書いているのかを調べ(考え)なければならない.
これは先に挙げた”主題を敢えて捻じ曲げている理由”を考えるのと同じぐらい徒労に終わってしまうケースが多い.
先ずこの点で,嫌いというより解らないのが気持ち悪い.

複数のストーリを選択可能

”複数のストーリを選択可能であること”は,複数の女性キャラを攻略可能であるということを主に指すのだが,これも”どのストーリを読んで欲しいのか解らない”というのが大きい.
読者の目の前に複数のストーリ(女性)を並べて,「どうぞ,お好きなものをお好きな順番でお読みください」と云ってくる.
これは,先ずオードブルを出して,スープを飲ませて,メインディッシュを食べさせるといった演出を放棄していることに近い.「如何に効率よく読ませ,如何に深く感情移入させ,如何に楽しんでもらうか?」といったストーリ上の演出を放棄している様に感じる.(ゲームのシステムとしてはこっちの方が面白いのだろうから,問題ないけれど)
また,「フランス料理(ロリ),中華(お姉系),和食(妹),どれにいたしましょう?」っと云っているのにも近い.(ファミレスみたいだ)

私が好む作品は「当店ではフランス料理しか出しません」といって,長年修行してきた技を駆使して,例えフランス料理が嫌いな人間にも「う…うまい!!」っと言わせる気概を持った作品である.
例え,ロリキャラが嫌いな人にでも,延々とロリキャラがどう素晴らしいのかを説明しつくし,最後には虜にしてしまうぐらいの気力がなければいけない.(これは別にキャラに限ったことではなく,選択肢が存在する時点で,見る人がみると”逃げ腰”に写ってしまうのである.)
しかし,ジャンルで棲み分けし,ポストモダン化の激しく,蛸壺化してしまっている現在では,どの表現でもこういった問題はあるので,これだけで嫌いになるわけには行かない.

そこで,もう一つ”複数のストーリを選択可能であること”が嫌いな理由を説明したい.


私はよくギャルゲをやっているとき,「さっきからやたらと話がシリアスだな〜ちょっとはギャグ入れとかないと単調になってしまうぞ?」とか「何故このタイミングでこんな長ったらしい説明が入るんだ?」と感じることが間々ある.
気になって調べてみると,どうも選択肢によって,ギャグが入る展開や,説明が入らない展開があることが判明する.しかし,別に長々とシリアスムードで展開していくことも,長ったらしい説明をいれることも,別に間違いではないし,シリアスの中にちょっとしたギャグを入れて,またシリアスに戻すって演出も正解ではない.それは作家の好みやセンスや考えがあってのことなのだから…
ここで,また”どちらの展開が作者の本性なのか解らない”という状態に陥る.「そんなこと,どうでもいいじゃないか」と云われるかもしれないが,こういった細かい分析や作者の癖,テクニック,センスを感じながら読むことに慣れ親しんでいる人間にとっては,大きな障害なのだ.

つまり,複数のストーリを行き来したり,マルチなエンディングを素直に受け入れたり,果てはアニメや漫画,ライトノベルといった複数の媒体をも,自由に,しかも,ほとんど無自覚な状態で自然に行き来する能力が私には無いらしい.
この点で,また嫌いというより解らないのが気持ち悪い.

複数人のシナリオライターによって書かれてある

メインのヒロインはメインのシナリオライターが全部一貫して書いているようだが,サブヒロインになると,別のシナリオライターが書くことがギャルゲでは許されているケースが多い.
こういった場合,私は,話のテーマや世界観は共通しているように思えるが,キャラクターの知識レベルというか,言葉の選び方に若干違和感を感じることがある.(これは非常に微妙に感じるだけだ.明確に指示できるほど解らない.)
おそらくもっと深く文章を読み込んでいる人は,文章の癖や持っている雰囲気みたいなものの違いまでわかるかも知れない.少なくても,そういった差異は,書いている作家が違うのだから,あって当然だと思う.
大げさに言えば,同一キャラクターを別人に感じたり,世界が共通しているように思えなくなったりすることがあるわけだ.


もちろん一般小説や漫画でも,連載をしていれば作家も成長するし,現実も変化するわけで,こういった差異を感じることは良くあることであり,問題ないと思うわけだが,気になりだすと止まらない.
「この知識レベルや言葉の選び方に若干の違いを感じるのは,何かの前振りなのか?それとも作家の違いによるものなのか?」と,こんなことを考え始める.

こういった複数のシナリオライターの書いたものをごく自然に,違和感なく読めてしまうのも,二次創作とオリジナルを自由に行き来する習慣であったり,メディアミックス的な展開に慣れているからこそ,手に入れることのできる能力なのだろうと思っている.

何故ギャルゲがつまらないのか?

以上説明したように,かなり細かく,些細な要因が積み重なって,ギャルゲが嫌いなのだ.
しかも,その些細な点はギャルゲが,もともと持っている構造上の問題であったり,習慣的・伝統的に使われている手法であったりする


ここまで読んできて,多くのギャルゲを嫌う方は「何訳のわからん理由を並べているんだ?単純にギャルゲはつまらんだけじゃん」と感じているかも知れないが,しかし,これら”嫌いな理由”は,「何故ギャルゲがつまらないのか?」といった問題の説明にも使うことができる.
私が考えるに,まだギャルゲがつまらない理由は,”マルチエンド・マルチストーリ”,”複数のストーリが選択可能”で,私が”解らない”とした点を,単純に断定を避けるために使ったり,無理やり説得できるほどの力量や内圧が無いがために,読者の納得しそうなストーリを複数用意しているだけであり,読者もそういった結論を出されていない(作者が何を言いたいのか良くわからん)作品を許容している市場であるがために,強い問題意識を持っているような作家が生まれにくいし,成長しにくいのではないか?といった見方をすれば説明できる.
”複数人のシナリオライターによって書かれている”点では,上述した,キャラクターのブレや,果ては作家の中でのブレを許容してくれる市場であるがために,作家がそういった状況に甘えているといった見方も可能だと私は思っている.


閑話休題,とにかく,これで一応「ギャルゲが何故嫌いなのか?」を説明することができた.
次回は『桃華月憚』を使って,ギャルゲ嫌いがギャルゲを楽しむ方法を説明してゆきたい.

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