ギャルゲ嫌いな人間がギャルゲを楽しむための方法 『桃華月憚』 その2

前回ギャルゲ嫌いな人間がギャルゲを楽しむための方法 『桃華月憚』 その1 - WebLab.otaでは,ギャルゲ嫌いが何故ギャルゲが嫌いなのか?を説明した.
今回はそれを踏まえて,ギャルゲ嫌いがギャルゲを楽しむ方法を紹介したい.


前稿で紹介した”ギャルゲが嫌いな理由”は,簡単に言って,私が主に消費している物語(構成・演出)の部分に,ギャルゲ(ゲーム)がもともと持っている構造上の問題であったり,習慣的・伝統的に使われている手法が入り込み,小説などで培ってきた物語の消費の仕方を阻害しているように感じるのが原因だ.
そういったギャルゲ嫌いが,ギャルゲを楽しむための方法として,一番有名な考え方は,東浩紀が提唱する『ゲーム的リアリズム』,『環境分析的読解』がある.
東はそういった”小説とは違った部分”を持つギャルゲやゲームのような小説を,『環境分析的読解』という高度な読みをすることにより,そこに『ゲーム的リアリズム』を見ることができることを紹介してくれた.確かにこの考え方を導入すれば,”ギャルゲが嫌いな理由”をふんだんに内包しているギャルゲを,私が主に消費している物語(構成・演出なども含む)の部分で楽しむことを可能にしてくれる.
自然主義的=小説とかゲームのような小説などの定義なんかはここでは言及しません.詳しい解説はゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2を読んでください.あわせてキャラクター小説の作り方 (角川文庫)も読むべきだと思います)


そして私も,『桃華月憚』というギャルゲを使って,もう一つ”ギャルゲ嫌いがギャルゲを楽しむための方法”を提案したい.内容なんかにはほとんど触れないので,やったことが無い人・知らない人でもたぶん理解できる.

概要紹介

桃華月憚は主人公(プレイヤー)が知り合ったキャラクターをストーカーして,好感度を上げて,攻略(オトス)していくゲームである.
ここでいうストーカーとは,広大なマップ上を,ルーチンで移動しているキャラクタに会いに行って,話しかける行動を指している.これは,ネットゲームなんかで特定の人物(プレイヤー)に会いに行くために,同じサーバにログインして,同じ街に行って,話かけに行くといった行動と非常によく似ている.そういったプロセスであると理解してくれればよい.
基本的に一本道のストーリであり,通常のノベルゲームのようにキャラごとに用意されている個別ルートに分岐することは無く,ある一定の条件を満たしていると,個別キャラクターのイベントが発生して,イベントが終了すると,元の筋に戻る(ストーカーする画面に戻る)形である.


しかし,私が読む限り,この桃華月憚には,ストーリとキャラクターの内面は存在しない.
キャラクターの内面が存在しないというのは,ストーカーをして会いに行き,話しかけても

鞠絵:「守東先輩!!」
(プレイヤーが話しかけるを選択)
鞠絵:「え?何を考えていたかですって?そんなの−−−決まってるじゃないですか」
−−−鞠絵との話は,大いに盛り上がった.
(全文を掲載しています.−−−のところは本当に−−−です.)

といった中身の全く無い会話で終了してしまうところに見える.イベントもほとんど好感度が通常の会話より多く上昇するだけであり,また次のイベントのためのフラグとしてしか機能していない.
こんな会話(会話といえるのかどうかも怪しいぐらい適当)で,キャラクターの内面を理解(表現)するのは無理があり,性格なんかも,絵柄や言葉の語尾なんかで読み取ることが可能な,表面的な情報で,我々の持っている既存のデータベースを参照して,「こいつはツンデレキャラか?」といった分類をしていくしか他無い.そういった意味でキャラクターに内面は存在しない.
また,ストーリも,主人公に与えられるミッション内容であったり,次に主人公(プレイヤー)が取るべき行動を示唆する程度のものしか語られない.あまりにも淡々とストーリが進行して行き,とても淡白な印象を受ける作品である.一応ネタとしてメタ的構造を持った話なのだが,そのメタもなんの捻りも,衒いも,目新しさの欠片も無いものである.この程度のメタならプリンセスチュチュ 1(un)の方がよっぽど高度なことをやっている.*1 そういった意味で,ストーリもまた存在しない.


こういった理解をすると,桃華月憚には物語が存在しないことになる.
つまり,私が前稿で解説した”ギャルゲを嫌う理由”は桃華月憚については適用できなくなる.


また,実は前稿で解説した”ゲームを嫌う理由”も適用できない.
なぜなら,内面の存在しないキャラクターの好感度上げるためだけに,広大なマップ上からターゲットとなるキャラクターを探し,ストーカーするという単純な行動を何千回(本当に何千回って単位で試行する)も繰り返すことがゲーム的に楽しむところではあるが,それにはエンターテイメント性が全く無いからである.東方の弾幕を避ける作業なんかとは比にならないぐらいにエンターテイメント性がゼロなのだ.
(たぶん楽しめる人なんていない.楽しめる人がいるとしたら,その人はマゾだ.)

インプリンティング

では,どこで楽しめばいいのか?

桃華月憚は上述してきたようにエンターテイメント性がゼロだ.物語を消費することも,ゲームとして楽しむこともほとんどできない.
しかも,ゲームの前半・中盤では本番(H)を迎えることもできない.(一応前半部で迎えることのできる本番もあるのだが,サブサブキャラ(攻略不能キャラ)である)この点でも,また,エンターテイメント性が非常に低い.
しかも,その明確なエンターテイメント要素(エッチ)を迎えるためには,拷問とも思えるようなストーカー行為を10時間以上試行し続けなければいけない.
桃華月憚をプレイしかけの人のブログで,「音声パッチが出るまで寝かします」といった類のギブアップ宣言がなされているのをよく見かけるのは,当然のことだろうと思う.


しかしストーカー行為の試行が5時間を越えてくると,微妙な変化が現れ始める.
桃華月憚では,ストーカーしてキャラクターに話しかけるときに,どういった態度で話しかけるかを選択することができる.例えば,「冷静に話しかける」や「情熱的に話しかける」といった感じだ.そうした選択によってキャラクターの反応が違い,正しい選択ができれば,会話の内容はほとんど変わらないが,背景にハートマークが飛び,また選択を間違えると,斜線が入ったり悲しくなる音楽が流れたりするつくりになっており,先ず,この選択を間違えたときにひどい落胆を覚えるようになってくる.
「もう話しかけないでください.」なんて云われると,心が痛み出す.


さらに,好感度が上がってくると,会話に「日曜日に約束する」といった選択肢が現れる.私はこれを「あ〜やっとエンターテイメント(本番)が見れるんだ…あ〜長かった,辛かったなぁ〜」と思い,意気揚々と日曜日に参上したのだが

明日菜:「今日はお宝鑑定をやってるみたいですね」
桃香(主人公):「お宝鑑定か…明日菜んちには古美術品とかあるのか?」
明日菜:「いえ…,うちはお金持ちじゃないですから」
桃香:「んじゃ,ウチに転がってるのをいくつか持ってくるか?売れば少しは金になるだろ」
明日菜:「い,いえ!とんでもないです!」
桃香:「遠慮すんなよ.どうせただ置いてあるだけなんだから.だったら金に換えて使った方がマシだろ?」
明日菜:「い,いい,いけません!そんなことしたら,おうちの人に怒られちゃいます!」
桃香:「固いなぁ」
桃香達は,お宝鑑定に一喜一憂のひとときを過ごした………
(「日曜日の約束」ほぼ全文)

ってオイ!!これで終わりか?終わりなのか?…


マジで凹みました.そして気づいた.「あれ?俺はこのキャラクターが好きになっているようだぞ?」と.
ヒルの子が親の後ろに延々とくっ付いて歩くように,広大なマップ上を動き回るキャラクターを執拗に付回し,話しかけるといったストーカー紛いの事を延々と繰り返していくうちに,どうも刷り込み(インプリンティング)が行われたのではないか?というのが私の分析だ.


単純な試行を繰り返しさせ,しかも能動的な選択(どのキャラクターに話しかけるか)も繰り返しやらせることによって,キャラクターへの愛情をインプリンティングする…いや,反復学習なのかもしれないし,肉体に直接記憶させる手法なのかも知れないが*2,物語の要素が少なく,ゲームとしてのエンターテイメント性の低い桃華月憚でないと,こういった形でキャラクターへの愛情が生まれるのだという事実は,相対的に見えにくい.(物語に魅力があったり,キャラクターに魅力があったり,ゲームとして面白かったら埋もれてしまう)
そういった意味で,この愛情のインプリンティングのような現象を体験するには,桃華月憚は非常に良いテキストであると考えている.


しかし,この刷り込み(インプリンティング)のような現象は,おそらく,どのギャルゲにも多い少ないはあるにしろ,存在しているはずだ.
何故なら,ギャルゲは,「どのキャラクターを選択するか?」や「どういったストーリを選ぶか?」といった単純で,能動的な選択を繰り返すものだからだ.
こういった分析が成り立つならば,ギャルゲを好んでプレイする人が,ギャルゲ嫌いな人間にとって,それほど魅力を感じないキャラクターに,必要以上の愛情を傾けてしまう理由がなんとなく解る.つまり,ギャルゲのキャラクターへの愛情は,通常の小説などのキャラクターへの愛情が,キャラクターの魅力+物語の魅力であったとするならば,キャラクターの魅力+物語の魅力にインプリンティングによる愛情が加算されるからだ.
前稿で列挙した”ギャルゲを嫌う理由”で,物語とキャラクターの魅力が減少しようが,このインプリンティングによる愛情によって,十分に楽しめるわけである.

桃華月憚【通常版】



参考
http://nanamomorio.blog.shinobi.jp/Entry/394/
I don’t care many ordinary rose. - 独り言以外の何か

*1:)プリンセスチュチュ 1(un)のメタは本当にすごいと思っている.メタ的構造をもった物語としては,極北に九十九十九あると思っているが,プリンセスチュチュ 1(un)も子供向けアニメでこれだけのメタを展開できるのはすごいとしか言いようが無い.

*2:以下は便宜上インプリンティングだとする