サービスとしての物語〜変質する物語〜

先の”Web2.0とオタク”で「現在のオタク表現は受動的な作品の享受者とは別に能動的な表現者が存在し、かつその表現者を積極的に巻き込んでいくことが重要になっている」ことについて説明したが、これはオタク的な物語の質の変化についても示唆的だ。

従来の物語であれば、表現者は唯一人作者をおいて他になく、それを頂点としたヒエラルキーが存在した。
しかし、今のオタク的な物語の表現者は、ネット上に不特定多数無限大存在し、時間とともにその数は変化する。
前者を”閉じた物語”と後者を”開かれた物語”と云えるかも知れない。

後者の”開かれた物語”は「如何に開かれるか?(如何に表現者を巻き込むか?)」という点が重要であり、効率よく開かれることが良い物語であり、ネット上に不特定多数無限大に存在する表現者に自由に表現してもらうためのツール(キャラクター、設定等)をどれだけ公開できるか?が人気を左右すると云って良い。
さらに云えば、Web2.0での「サービスを完全に規定せずに、ある程度の自由を与えてやり、あとは不特定多数無限大の表現者に新たなサービスを開発してもらう」という考え方も導入でき、「一つの物語として完結してしまうのではなく、ある程度の自由を与えてやり、あとは不特定多数無限大の表現者に新たな物語を物語ってもらう」ことが、現在のオタク的な物語では重要なのではないかと考える。

例えば、「涼宮ハルヒ」で考えると、この作品は設定として”何でもあり”であるためにSFやサスペンスからミステリやラブコメ、内面世界など、多種多様な側面があり、それぞれあまり深くは追い込んでいない。(新城カズマ曰くライトノベルとはよういうものならしい:ライトノベル「超」入門
しかしこれは上述したが、”追い込む必要”がないからだし、追い込んでしまっては物語の自由度を下げることに繋がるのだからやめた方がよいのだ。
追い込むことは、不特定多数無限大に存在する表現者が行えばよいのである。

つまり、「涼宮ハルヒ」は『作品(物語)としてのインターフェース(API)を数多く、そして自由な状態で公開している。』
オタクがWeb2.0化している時代に、Web2.0として優秀であったからこそ、人気シリーズとなったわけだ。



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