俺たちに翼はない 実験性と娯楽性とメッセージ性の話

最終話も最高に盛り上がった(俺が個人的に盛り上がった)「俺たちに翼はない」について書く.
ネタバレするんでよろしく.

多義的な世界,主観的な世界

この「俺たちに翼はない」って作品は,こんな(下図)感じの主人公が出てきて,

実は同一人物ですって話.つまり主人公は多重人格である.
なんだけど,この時点でルールをいろいろ無視している.

普通の多重人格キャラってのは,こんな感じで,頑張ってカツラを被って髪の毛を変えるキャラはいるかも知れないけど,そーゆー努力無しで髪の色,骨格までナチュラルに変えるキャラはあんまりいない.


まぁ,綿の国星大島弓子)や田辺のつる(高野文子)の世界では,猫やおばあちゃんが,そーゆー努力なしで少女の姿になっていたり

空中ブランコやH2Oでも,そーゆー努力なしで,若返ってたり,目が見えるようになっていたりするけど


これらにも一応,「本人がそう思い込んで」いて,視聴者・読者はその人物の「主観を通して世界を見ている」から,客観とは違って見える.というルールがある.


しかし,「俺たちに翼はない」だと

ころころ変わったりするのはいいとして

三者の主観によって姿形が違ったり,

中の人格と,外見が一致しなかったり……(内面が千歳鷲介で外見が成田隼人だったり,その逆だったり)
こんな感じにむちゃくちゃだ.
主人公(姿が変わる本人)の主観によって姿が変わったり,主人公を見てる側の主観によって姿が変わったり,主人公の意図で変わったり,わけがわからない.
いや〜素晴らしいルールの踏み外しだと思います.


しかし,この後,主人公の人格が一つに統合されていくので,
人格の住み分けの出来ていた状態から,不安定な状態(ルールの踏み外し)を経て,統合されていく……という流れを支える一つの演出としても機能していた.

同一性の問題

このキャラクターの姿が連続した時間の中で変わっていく……って設定で思い出すのは,吾妻ひでおの『狂乱星雲記7 霧の町』.

この作品は,主人公以外の人やモノが一コマ進むたびにどんどん変わっていく実験作(?)である.
花園大学8月1日 講義「ヘンなマンガ」レジュメ:夏目房之介の「で?」:オルタナティブ・ブログ


俺たちに翼はないでは,こういった実験的な要素がちょこちょこ混じっているんだけれど
個人的に,これらを全部くだらないギャグとして使ってくるのがすごいポイント高い.
前衛にしないってのは素晴らしいことだと思います.

その他気になったとこ


いや〜このレイアウトかっこいい.
天井の圧迫感いい味だしてる.どーゆー構造の建物なんだろうね.



広場のどこにベンチを置いてんの?広場の真ん中の方に置いてるのか?みたいな


相変わらず,整合性とか客観性とか無視したコンテを書くウシロシンジ.シビれる憧れる.