「あたし彼女」の考察

「あたし彼女」はすごい - WebLab.otaの続き
前回は文体とかそーゆー外観(?)で語ったけど,今回は中身についてあれこれ書こう.

なぜこんなに抽象的なんだろう?

こーゆー性生活とか今時の若い子の暮らしっぷりとか風俗とかを描写するときは,具体的なブランドだったり地名だったり,お店の名前だとかを出して,リアリティを出そうとするものなのだけれど,この作品では一切それが無い.


作中で主人公の女性は,「男が言い寄ってきて,貢いでくれるいい女」として描かれているけれど,一体どの程度「いい女」なのかよく分からない
働かずに欲しいものは男にネダり,食わしてもらっているとは書かれているけれど,例えば,「女子高校生が援交すれば買える程度のブランド」を強請っているのか,「OLが頑張れば手が届く程度のブランド」なのか,「OLがいくら頑張っても手にできないようなブランド」なのか…「居酒屋程度の店」で食わしてもらっているのか,「紛いなりにもレストラン」で食わしてもらっているのか,「超高級レストラン」なのか分からない.
具体的なブランド名やお店の名前が出されていれば,「いい女」レベルが測れて,しかも「言い寄ってくる男」のレベルも把握できるものなのだけれど,一切分からない.
彼氏の方も,31で専務(?)になって,彼女曰く高級マンションに住んで,呼べば車で向かえにきてくれて,強請れば何でも買ってくれる「いい男」として描かれているけれど,どの程度なのかよく分からない.
車を持っているらしいが,それが外車なのか日本車なのか,さえも分からない.アメ車なのかヨーロッパ車なのかによっても,その男の位置や考え方なんかを匂わすことができるのに,一切不明だ.
彼氏がよく連れて行ってくれるレストランの名前や,ワインの銘柄,スーツや靴のブランドエトセトラエトセトラエトセトラによって,この男の勤めている会社がどれくらいなのか?社交的なのか?インテリなのか?本当にいい男なのか?をある程度匂わすことができるはずなのに,していない.


加えて,前回のエントリ(「あたし彼女」はすごい - WebLab.ota)で

80年代臭がすごい

この作品に出てくる男はすごいバブリーな人である.田舎出のくせに,26歳ぐらいで高級マンションに住んで,自分の女にはいいものを喰わしてやり,女に呼ばれれば車を飛ばして向かえにいき,ねだられれば何でも買ってあげるような野郎である.
女の方も,岡崎京子作品に出てくるような,男取っ替え引っ替えして,「今が楽しいのが正義!」主義者で,中絶してもなんとも思わないようなビッチである(岡崎作品であれば,これに加えて薬やって,整形して…ってビッチだけど).
(中略)
しかも80年代にあったと言われる,自己表現としてAVに出ていた類の女優の語り口に似ている気がする.

と書いたけれど,携帯電話があるし,どう考えても90年代後半以降の物語なはずなのに,すごい古さを感じる作品だった
流行りのブランド名なんかが出ていれば(リアリティがあれば),80年代臭は薄まっていたんだろうけど,この作品に出てくる二人が,いったい何時どこの人なのかさっぱりで,リアリティがまったくなかったせいで,なんだかよく分からない,ふわふわした印象が残ってる.


こんなに抽象的(ふわふわ感)であるのは,なにか意図があるのだろうか?……というか,これだけ徹底しているのだから,当然何か意図があるんだろうなぁ.

定型詩的制約

このふわふわ感は,文体のせいもあるのではなかろうか?
ディティールを語れない(できるだけ簡単な言葉で綴る必要があるから.逆に言えば,ディティールを語らなくても済む),というこの制約(?)によってこのふわふわ感があるのではなかろうか?

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あの改行の使い方はケータイならではの新しい表現方法だと思う。漫画のコマ割りに似た視覚的表現方法だなと思う

というように,既に「新しい表現方法」として認めてる人もいる(私は「まだ実験.これから何が表現できるか試してみて,それからじゃないかな?」とか思ってる)けれど,ありかもしれないね.