世代間で共有するアニメが日本では流行らない

以前岡田斗司夫がそういった旨のことを言っていた.
アメリカではスパイダーマンバットマンといった作品を永遠と作り続けて,自分の子供,そのまた子供にも共有して行こうとする.
さらに,映画やTVアニメ,コミックス,小説といったメディアミックス戦略で,映画は大人も楽しめるエンターテイメントとして作り,TVアニメでは中高生あたりをターゲットとした内容に,コミックスは小学生,小説は大学生から青年をターゲットにするといった戦略を立てることが多い.
コミックスでは解りやすいスーパーヒーローとして,TVアニメでは淡い恋愛や男女関係を織り込み,小説ではセックスからドラッグといった社会の暗部を描写するといった感じになる.
そうやって一つの作品を長く作り続け,そして全世代共通の財産として作り上げようとする.
これは,アメリカの子供部屋にある玩具の異常な多さなどに象徴的に現れてくるらしい.つまり自分が子供時代に遊んでいた玩具を自分の子供にも継承し,また大人も子供と一緒になって,同じヒーローに夢中になることができるから子供部屋に玩具が溢れるのである.
こういった世代間で共有できる作品群のことを,私は個人的に”世代貫通的な作品”と呼んでいる.


日本でも微妙に世代貫通的な作品は存在する.例えばウルトラマン仮面ライダーガンダムといった作品がそれである.しかしこれらは長く作り続けることによって世代貫通的な作品に辛うじてなっているだけで,世代層に合わせたマーケティングはあまり成されていない.(つまり全世代で共有財産にしてゆこうとする意識が低い)
簡単に言えば,エヴァンゲリオンが流行ったのだから,大人も楽しめるエヴァンゲリオンを作り,幼稚園児も楽しめるエヴァンゲリオンを作るといったマーケティングは行わないのである.


何故こういった世代間で共有しようといった動きが見られないのかは解らない.が,ガンダムに纏わる世代間の論争を見ていると,日本では世代貫通的な作品は作れないかも知れないなぁと思ってしまう.
これは,ファースト世代のSFファンの多くは,ZやZZを「あんなものはガンダムでは無い!」といい,ちょっと前で言えば,SEEDを楽しんでいる女子や比較的若い人に対して,それ以前からのガンダムファンが総力を挙げて叩き潰そうとした動きなんかを見ていて感じることである.
アメリカであれば,話の内容やテーマが違っても,それはそれで一緒に楽しむだけのリテラシーを育ててきた歴史があるので,同じシリーズ作品(スピンアウト作品)同士で醜く争ったりしないのだろうが,日本では勝手が違うようである.
自分たちと違った楽しみ方や自分たちをメインターゲットとしていた作品が,急にターゲットを変えると逆上して「黒歴史」だとか,新しく加わったファンを「にわかファンである」と馬鹿にする傾向が強いように思う.


ここからは話が飛躍するが,前回のエントリ(ハイブリッドP2Pを使ったアニメビジネスを考えてみる - WebLab.ota)のコメントで「何故か日本の企業やエスタブリッシュメントは情報を共有しようとしない」といったことを書いた.また「何故か日本の業界はアメリカと比べて,新しい価値観を持った人々を排斥しようといった動きが強い」といった旨も書いた.

しかしこういった新しい価値観(自分とは違う価値観)や共有の財産にしようといった動きに対してネガティブに捕らえるのは,企業やエスタブリッシュメントや業界だけでなく,オタクも含めた日本人全体の持つ資質に問題があるのかも知れない.
もちろん”萌えのデータベース化”による萌えの共有やニコニコ動画を含めむ「一緒に楽しむ」といった価値観を持った人々が多いオタクは,どちらかというと情報の共有化や新しい価値観に対して寛容であると思っていたのだが,そういった面ばかりでもないのかも知れないなぁと考えている.


私は情報の共有化やネットに纏わる新しい価値観を肯定的に受け止めている人間の一人で,常に,企業やエスタブリッシュメントや業界に対して,「どうすれば彼らを納得させられるだろうか?」と考えをめぐらせているが,そういった比較的頭の難そうな人間だけでなく,日本人の資質的な問題を相手にして行かなければならないかもしれないと……そんなことをふと思った.