こうの史代『夕凪の街 桜の国』の演出
今更感はぬぐえないが、こうの史代の『夕凪の街 桜の国』について書きたい。
第8回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞、第9回手塚治虫文化賞新生賞をダブル受賞したこの作品はいうまでも無く名作だ。
これが発表された2004年ごろは、どこでも大絶賛されたし、評論活字系も騒いでいた。
今でも2007年(平成19年)夏に映画化予定で、現在そのノベライズも進行中という作品である。
私のもっている本の帯には、みなもと太郎先生がこう書いている。
実にマンガ界この十年の最大の収穫だと思います。
これまで読んだ多くの戦争体験(マンガに限らず)で、どうしても掴めず悩んでいたものが、ようやく解きほぐせてきた思いです。
その意味でこの作品は、多くの記録文学を凌いでいます。
まさに、みなもと太郎先生のいうとおりである。
わたしのトラウマになっている『はだしのゲン』だって今では、反日漫画にしか見えなくなり、純粋に読めなくなったけれど、この作品は別である。
どこか懐かしく思える絵が、(おさらく)ミリペンで細かく描写する手法が、緻密に考えられた演出が、純粋で悪意をまるで感じさせないこの漫画の雰囲気が、心に直接突き刺さる”何か”を持っているのだろうと思う。
こうの史代の演出
私は今回この『夕凪の街 桜の国』の演出について解説したい。
私が真の意味で名作だと思っているのは「夕凪の街」の方で、この短編の中で使われている演出は実に見事だ。
(できればこの先は本編を読んだ方だけが読んでほしい。そして、この短編がいかに凄かったのか再認識して貰いたいのだが)
この2ページだけで、「この作者は天才だな…」と思わせてくれる。
上ページ(同作14ページ)の6コマ目、下ページ(同作15ページ)の5コマ目。これらのコマは主人公が原爆の記憶を思い出している瞬間なのだが、どちらも小さく圧縮されたコマであり、コマの枠線が無い。
前者は主人公の抑圧したい気持ちの表れで、この手の演出はどの漫画でもある程度なされるので、特筆すべきことではないのだが
後者は、枠線をなくすことによって、コマとして切り取られていない“コマの外側”があることを読者が何となく想像してしまうような作りになっている。
つまり、“時間”としては一瞬であり、主人公の抑圧した気持ちを表すために、細く圧縮されたコマになってはいるが、シーンとして描かれていない部分、もしかしたら見開き一ページ占領してしまうぐらい巨大な画面が、主人公の心の中に存在している可能性を表しているのだ。
原爆の体験が主人公にとってどれだけ大きな存在か、ちょっと気を抜くと現実よりも重みを持ちかねない巨大な記憶かを、この小さなコマだけで表現しているのだ。もう驚嘆するしかないではないか。
さらに、この物語の中ごろで、主人公が今まで抑圧してきた原爆体験に飲み込まれてしまうシーンがある。
このあたりになると、もう作者の演出力は天才的ひらめきを見せ始める。
上ページ(同作23ページ)の4コマ目で主人公は、草が足に纏わりついているのを見て、完全に原爆の記憶に飲み込まれてしまう。
それはコマが横を向くという、漫画の読みを変化させてしまうほどの衝撃であり、読者にも共有されるように書かれている。
さらに、この衝撃はコマが横を向くだけでは飽き足らず、1コマで現実と非現実、戦後と原爆の記憶がごちゃごちゃになった画面として出てくる。
下ページ(同作24ページ)の3コマ目では、ススキの葉が被爆者の焼けた手(強迫観念)になっている。
最後にはコマの読みが正常になった世界(現実)にまで、侵食してしまい、主人公を束縛してしまう。(同作25ページ1コマ目)
ここまで計算された演出をされては泣くしかない。
少なくとも私は立ち読みしながら泣いてしまった。
もしここまで読んできて、まだこの作品を読んでいない人がいたら、是非読んで貰いたい。