思いつき暦

1 はじめに

今回は少し思うところがあって書き始めた.
思うところというのは中身の話しではなく,文体そのものについてである.
今まではどちらかというと堅苦しい文体,評論的な文体を目指していたわけだが,その趣向を変えてみることに相成ったのだ.
別にたいしたことではないのだろう.
ここでこうやって宣言をしておかなければ気づかぬ人も多かろうと思うほどたいしたことではないのだ.

2 人類おたく化計画

電車男やらなにやらで「おたく」的なるものは広く一般に知れることとなった.
NHK でも近年のおたく事情についての特集を組むほどの広がりようである.
しかし,この広がりも何故か全体にどんよりと閉鎖感が広がっているように思えて仕方が無い.
未だに私は自分がおたくであることを胸を張って言い出せずにいる始末だ.
もちろん,そんなことを世間様に告白する必要があるのかと聞かれれば,その必要性はまったく無いのも解ってはいる.
しかしここに罪悪感ではないにしろ,後ろ指を差される立場にいる感覚に襲われることがあるのも,また事実である.

こういった感覚はおたくである以上,甘んじて受けねばならぬ仕打ちなのだろうか?
いやいや,こうやって自分を蔑むのはおたくの悪い癖だ.
そう,一昔前で例えるならば,マンガ読みも同じような卑下される立場にいたのだ.
しかし大学生が電車でマンガを読んでいることが新聞沙汰になったような時代は疾うに昔話となり,今やそんなことで驚く者など外国人だけとなっている.
そうしてマンガ読みは市民権を得たではないか.

では何故おたくはここまでの広がりを得たというのに,その権利を獲得できずにいるのか?
少女誘拐事件が起きる度,また(宮崎事件の時のような)迫害をされるのではないかと怯えなければならないのか?
そこで私はこの状況を打開すべく,人類おたく化計画なるものをでっち上げたい.
この計画はとても単純に

子供のころから見ているからテレビを見る.
子供のころからマンガを読んでいるから大人になっても読む.
子供のころからパソコンと触れていればもちろん使い続けるようになるだろう.

そういうことだ.ただ,低年齢対象のおたく的なる作品を生産し,流布すればよいのだ.
おたく的なるものも子供のころから慣れ親しませれば,抵抗無く,大人になってもおたくであり続けるのではなかろうか.
手塚治虫がした偉大な業績のひとつがこれである.
(これによりアメリカのようなスーパーヒーローものの系風以外は弾圧される状態にならずに済んだし,よど号ハイジャック事件が起きても漫画にその原因を求める様な風潮にならずにすんでいる)
子供のうちから洗脳し,ネオ・ジェネレーション(?)を向上的に生産し続けるシステム,これを導入すればおたく的なるものは,さらなる拡大が望めるはずである.

ということは低年齢対象の萌(おたく的)なる作品を生産することが必要になってくる訳である.
しかし萌なる感情を分析した心理学者曰く,この感情は第二次性長期を過ぎてから発現するものだそうだ.
つまり低年齢に理解できる萌など存在しないようである.まったく,実に不毛な議論をしてしまったようである.