いろいろな絵師とその作家性
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1051281.htmlという記事を見付けた.
ASCII.jp:豪華な作家陣が寄稿する (2/2)
いや…感動である.池上遼一氏に吉田戦車氏,中川いさみ氏が入っているのには驚いたし,皆川亮二氏のラムちゃんは意外に可愛いし,伊藤潤二は何描かせても恐くなってるし,松本大洋氏も混ざってる.
実にすばらしい企画だと心底思う.
今回は,このいろいろな魅力をもったラムちゃんを見ていて思うことがあったので書いてみる.
作家性がない…のか?
この錚々たるメンバーが描いたそれぞれのラムちゃんを見ていると(一部除く),同じキャラを描かせているのに,こんな小さな顔のカットだけなのに,それぞれの作家のもつ才能とか魅力とか特徴がいかんなく発揮されているなぁ…と,素直に感心してしまう.
陰影の入れかたから,鼻すじの描き方,一本の線の入り抜き,髪の毛の処理にいたるまで,作家独自のアジがあり,魅力を感じ,改めて漫画の”絵”の幅の広さを思い知らされた.手塚から思えば「はるばる来たなぁ」と思う.
それに引き換え,最近のライトノベルは……やアニメーターとライトノベルのイラストレーターの主力は二世代違う : ARTIFACT ―人工事実―なんかでも議論されていたことがあったし,萌えの記号化とかデーターベース化なんかでも議論されることがあるけれど,最近(この”最近”という言葉を無理矢理使うが)の絵師の絵は均一化されすぎていて,誰が誰だかわからないし,誰が描いても同じように見えるし,誰が描いていてもあまり気にならないし,誰の描いたキャラであっても必要十分で似通った可愛さ・綺麗さ・魅力を持ち合わせているように思えてならない.
先にべっかんこうと西叉を引いたのは,別に両名が同じ顔しか描けないことを示したいわけではなく,のいじも含めて,同じ絵柄であることを示したいのだ.
つまり,萌絵を描く,エロゲ原画絵師やライトノベルの絵師や同人作家に,これと同じような企画(ラムちゃんを描いてもらう)をやらせたらどうなるだろうか?という話である.
…おそらくみんな似たような顔をした似たような魅力をもった,均一化されて,記号化されたラムちゃんが勢ぞろいすることだろう.
均一化も萌の記号化もデーターベース化も大変結構なことであるし,そうした形式を積み重ねることで導き出される美もあるだろうし,それに生涯を捧げることを否定したりはしないけれど,もっと個性のある絵を評価する努力もした方がいい気がする.
昔「うる星やつら」だったら作画監督ごとにラムちゃんも個性があって,それを語るのが良かったってのがあって,でも,最近のそういうのを見ると,「あ,キャラクターデザインと違う.作画が崩れている.作画崩壊だ」といって非難する.そういう了見が狭いことになってるんです.
日本オタク大賞 06/07 後編 石黒直樹
作画崩壊騒動で噴出した感じがするけれど,均一化されて,作家性が低く抑えられていて,コントロールが効いていて,品質が一定であるものを好む…ってのはあまり好ましくない状況であるように思う.
というのが,才能至上主義者である筆者の考えである.