801ちゃんと失踪日記

昨日「となりの801ちゃん」を読んだ.今更かよ!っと思われるだろうが,別に知らなかったわけではない.ただなんとなく,嫌な予感がしていたので,今まで避けて通っていただけだ.
そしてその予想は裏切られることはなかった.

ただ幸せなカップルを見せ付けられる…という拷問

(正直この手のセクシャルな話は書きたくない.ので,直接扱わない.)
この”となりの801ちゃん”で描かれるのは,所謂オタクカップルであるのだけれど,そういった物語に必要(だと思われる)なオタクである自分に対するコンプレックス自責の念がこの漫画で描かれることはない.
たまに母親が登場してきて忠告をしていったり,腐女子である自分の彼女を見たりして,自虐的な台詞や,悩んでいる素振りは見せるものの,基本的には開き直っている.つまり,儀式として定期的に人間的な行動(自省)をするものの中身の無い,単なるポーズでしかない.(所謂動物的ってやつだ)


私は物語ってものは,何かを決意したり,決断したり,乗り越えたり,そのまた逆に挫折したりする過程を見せるものだと思っているのだけれど,この漫画にそれは存在しない.既にカップルとして成立しているし,何かに悩んでいる様子でもなければ,今のところ問題が発生しそうな気配すらない.
ただ幸せなカップルの問題のない(これから問題が起こる予定も無い)平和な日常が書かれているだけである.


何故オタク市場ではこういった到底作品として面白そうに無いもの(腐女子の実情を知るとか欄外に書かれているオタク的な情報目当てなら別にいいのだけれど)が人気になってしまうのだろうか?
こんな時「電車男」を読んだ母親が私に言って来た文句を思い出す.
「こんな障害の無い恋愛のどこが面白いの?ライバルの一人でも出せば面白くなるのかも知れないけれど…」
(もちろん,「恋愛をする」という行為だけで,オタクたちにとっては天変地異であり,自信の無い自分を乗り越えること事態が受難の煉獄であるのだけれど,一般人から見れば変哲の無い.どこにでも溢れている恋愛でしかない.)

失踪日記との相違

例えば,作者の実体験が元になっている漫画に吾妻ひでおの「失踪日記」がある.これは作者の吾妻ひでおが忙しい人気漫画家生活から逃げ出し,ホームレス生活を経て最終的にアルコール中毒になり,精神病院に入院するまでの経験を元にした漫画なわけだけど,オタクの神様(成功者)として崇められていた吾妻ひでおのあまりにも悲惨な実態が描かれていて非常に面白い.
この漫画は801ちゃんとまったく逆であまりにも辛い,問題しかない日常を淡々と,しかもギャグ調で書いている.
例えエッセイや自分自身を書く漫画だとしても,こういった要素を持つ必要があると私は思うわけである.

乙武洋匡の「五体不満足」なんかでもそうだけど,圧倒的に不利な状況や社会的に不利な状況をどうやって乗り越えるか?どうやって事態を好転させるかのプロセスを描こうとする…のが普通の作品なはずだ.

それに比べ801ちゃんには,社会的弱者(オタク)である自分たちがいて,既に開き直り,成功者(カップル)となった自分たちが描かれるだけである.どこにも”開き直る(事態を好転させる)”までのプロセスや言及がなされてさえいない.

問題が何もない日常

この「問題が何もない日常」ってやつがオタク市場で許されるようになったのいつごろからなのだろうか?昔は所謂高橋留美子的世界感というユートピアが存在していたけれど,それは押井によって問題提起されてしまってからは崩壊してしまった.
う〜ん,今思いつく限りでは「苺ましまろ」に代表される,女の子しか存在しない世界にあるような気がする.基本的に何も考えていない彼女たちをただただ描写し,読者も何も考えない状態で彼女たちをただただ眺める


あ〜なるほど,(ここで「苺ましまろ」を好きな方々には申し訳ないが)”嫌な予感”というのはこれだったのか…かも.



2007-10-13 - 二月のかもめ。