アニメってそんなに擁護できるようなものなのか?

前回の記事(オタクはまた弾圧されるのだろうか? - WebLab.ota)の続きです.

『京都の父殺害事件』を受けてSchool Daysひぐらしのなく頃に 解が放送を見送った事件をみて考えたことを書く.
オタクはまた弾圧されるのだろうか? - WebLab.ota

まずはじめに一言.

確かに,今回の放送自粛は過剰反応であったかもしれないが,別にそういったアンモラルな作品を作るなと言って表現の自由を侵害しているわけではない.時と場合によっては放送するなと言っているだけだ.私には大人たちが誠意ある対応をしようとしたようにしか見えない(たとえそれが過剰反応だったとしても).
ロマンポルノやAVの中に芸術の志があり,非常によくできた作品であったとしても,地上波で,まして子供が見るかもしれないゴールデンタイムなんかに放送するのは良識ある大人のすることではない.そういった良識的な判断の延長にある行為が今回の放送自粛だとしか私には思えない.(もちろん混乱を避けるために自主規制のラインを文章化したり,解りやすくする必要はあるけれど)

アニメってそんなに胸を張れるのだろうか…

前回も触れたけれど,Today'sムーブが京都の父親殺害事件とひぐらしのなく頃にの類似性を指摘する報道(京都16歳少女斧で警官の父を殺害 政治/動画 - ニコニコ動画)をしたことについて各所で反論がなせれている.

最近では報道被害というのが言われていて、アニメの放送よりもマスコミの過剰な報道の方が、被害者の遺族など関係者に実害が生じやすいでしょう。
「ひぐらしのなく頃に・解」の放送自粛についてまじめに考える - 萌え理論ブログ

もう、なんていうか、マスコミが主導する表現弾圧思考との断絶があまりに深すぎて、どう云えばいいのか分からないよ…。マスコミは芸術の概念自体を完全に無視している…。
芸術の根幹的なファクターとして、アナルシー(無秩序・秩序侵犯)の描写があって、これが描けないと、芸術は成り立たないものを持っている。一切のアナルシーを認めない芸術など、私の知る限り存在しません。逆に、一切のアナルシーを認めないということは、芸術が許されていないということ。日本マスコミはそういう社会を目指しているとしか思えないよ…。
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070921#p4

19世紀以前の世界では、どの地域においても美術品は特定の政治権力や宗教に従属したもので、その役割は特定の目的に奉仕するものであって、「芸術」という自立した価値は存在していませんでした。
西洋ではその後、近代の訪れと共に王家や貴族の美術コレクションが宙に浮くこととなります。それを市民の共有財産として管理しようということになるのですが、それを正当化する論理として生み出されたのが「芸術」という概念でした。
(中略)
一方、日本は前近代の権力がそのまま温存されたので、「芸術」という概念も言葉だけになってしまったという感があります。明治中期から日本美術が活発になったのだって、結局は輸出品として有効だと気付いたからなんですよね。
『School Days』『ひぐらしのなく頃に解』の自主規制に関して−日本人に芸術の自立性は理解できない? - tukinohaの絶対ブログ領域

一番上の引用については, id:sirouto2 氏の言うとおり,マスコミの過剰な報道の方が行き過ぎるケースが多いと私も感じる.そういった意味で,アニメを批判する前に手前のナリをなおしやがれとは思う.


が,下の2つの記事はちょっと疑問が残る.
まず第一に,『アニメ=芸術』といった前提で話をしている節がある点だ.
確かにアニメの一部は芸術として評価されている作品があるし,作家もいる.その評価自体は疑わないけれど,だからといって「アニメは芸術である」なんて思わない.少なくとも今回槍玉に挙げられている”ひぐらし”や”School Days”を芸術と言い張ることはかなり抵抗がある.

なんでこういう描写てんこもりの遠野物語等の柳田民俗学の後継的オマージュの要素持つひぐらしがマスコミに潰されてゆくのかな
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20070922#p1

といったことも言っておられますが,オマージュしていれば,オリジナルと同等の資質を持つことができるのだろうか?これも疑問である.


ひぐらしSchool Daysも「ヒロインが主人公を切りつけたり,殺したりしたら面白いんじゃないか?」といった思いつきに似た発想で生まれたと思われても仕方がないようなものだと私は認識しているし,消費者(オタク)も「誠死ね」とか「ざまぁww」とか「病んでる病んでるw」といった風に楽しんで,「ヤンデレ」なんていう形で萌え要素として確立させて,病的だったり,脈絡もなく,ただ視聴者を驚かせたいだけにしか見えないヒロインのエキセントリックな行動を笑って楽しむ…といったかなりヘンテコリンな消費の仕方をしている癖に……
そもそも,我々は,アニメ・漫画作品をどうやったら芸術として昇華できるのか?や,文学的に昇華できるのか?といった努力を(アニメ・漫画業界の一部だけでなく)してきただろうか?
マスコミに対して「我がフリなおせ」というと同時に,我々も「我がフリ」をなおさなければいけないんじゃないだろうか?


第二に,仮にこれらの作品が芸術であったとして,マスに放送する理由が良く解らない点だ.
今回の局側の自主規制や,マスコミのバッシングも,別に発売を禁止されたり,作成を阻止しようといったものではなく,ただ,少年少女たちをターゲットにして(若しくは,少年少女たちが見れるような媒体で),倫理的に問題のあるような(アンモラルな)作品を放送するべきではないのでは?といった良識ある提案じゃないのか?

脅威(と感じる) = アンモラル × 人数(時として影響力)

つまり,同人誌やPCゲームといった限られた市場だけでなく,漫画,アニメ,映画といったメディアミックスで悪戯に読者を増やすことも見直さなければいけないんじゃなかろうか?
仮に遠野物語ひぐらしと同等にアンモラルだとしても,若い少年少女に求心力があるであろう漫画・アニメでやっている方が脅威だとマスコミが感じるのも無理はない話しだと思う.



参考
放送中止関係の話 - 主にマンガやアニメに関するメモ