オタクは不能にならなければならないか

百合というジャンルが台頭しだしたころ(マリみて以降)から考えていたこと.
簡単に言ってしまえば,百合を萌え要素として取り入れてしまったことで,完全な観測者の立場に追いやられてしまった我々が,有能性を獲得するためには一度不能にならなければならないのかも知れないといったこと.


百合を楽しんでいるオタクたちは完全な観測者である.
百合的な世界(マリみての世界)のような男が存在しない世界では,我々オタク(男)が主体になることはできない.彼女たちの百合的関係を妄想し,ニヤニヤしたりときめいたり,様々な楽しみ方があろうと思うが,とにかく百合を楽しんでいるオタクたちは主体性を持って彼女たちと関わり合うことを夢想しない.
常に蚊帳の外であり,傍観者であり,観測者といった立場で百合というジャンルを楽しんでいる.
主体性をもった己を投影するような,端的に言ってしまえば,登場する少女たちと”肉体関係を持とう”といった妄想はしない.


この”主体性を失った状態で楽しむ”という不思議なことをしている集団が百合を楽しむ人々とは別に存在する.それはロリコンである.


ロリコンも完全な観測者だ.あるロリコン落語家はロリコンはハンターではなくウォッチャーだ.」と言っていたが,まさにその通りだろうと思う.
そういった知見から”百合”を見ると,『穢れなき少女たちを崇拝し,信仰し,俗物である我々(大人の女性も含める)とは完全に隔離されたところに置き,ただただ崇める』というロリコン(少女信仰)を体現したようなジャンルであることがわかる.
よって百合がロリコン同様に,主体性を失った状態で楽しむジャンルであるという見方はあっていいと思う.


そして,百合というジャンルが台頭してきたことで,主体性を失ってしまったオタクたちの中に,主体性を失った状態で楽しむことに我慢ができなくなった,つまり,男としてのアイデンティティを取り戻し,主体性を持った状態で彼女たちと関係を築こうとしているオタクたちが現れだした.
少女たちを百合という楼閣の中に閉じ込めて,決して交わらない形で楽しむことを覚えたオタクたちは,もう一度百合的な世界の中に閉じこもっている彼女たちと関係を修復しようとしている…
そういった物語が『乙女はお姉さまに恋してる』や『ななついろドロップス(アニメ)』であるような気がする.


乙女はお姉さまに恋してる』は直球で,女学院(百合的世界)の中にいる少女たちを落としていくゲームであり,『ななついろドロップス』は多少読み込みが必要で,家族や親しい女友人としか話すことができない,人見知りで恥ずかしがりやなヒロイン(百合的世界に閉じこもっている少女)を,不器用でこれまた口下手で,高2になっても女性を好きになったことのない主人公(主体性がない観測者)の恋愛話である.
この二つの物語に共通するのは,少女たち(百合的世界)と関係を持つために,一方は女装し,一方はぬいぐるみになることだ.つまり,主体性は持っているが不能である…という状態になる.

この主体性はあるが,不能である状態になることで,百合的世界の中で関係性を持つことが可能になっている.そして最終的に彼女たちと肉体関係をもつことが可能になる.
つまり男ではあるが,主体性を失ったオタクが,(有能性をもった)男として主体性を失わずに彼女たちと交わるためには,一度主体性はあるが不能にならなければいけないのではないか?


要するに女性と付き合いたい時は,ガツガツしてはいけないってことである.