変なエリート主義
http://www.heiwaboke.com/2007/11/post_1181.htmlを読んだ(途中まで)
ここで述べられている問題意識は,私の持っている問題意識と通じるものがある.私が今まで書き散らしてきたオタク批判みたいなもの…
- アニメってそんなに擁護できるようなものなのか? - WebLab.ota
- 最近のオタクは〜という話 - WebLab.ota
- いろいろな絵師とその作家性 - WebLab.ota
- アニメはアートだと人は云う - WebLab.ota
なんかで書いてきたことがそれだが,要するに変なエリート主義に対する疑問である.
恋空とオタク的作品
読んだことが無いので知らないが,『恋空』という作品は相当わけの解らない作品なのだろう.それはそうだろう.何も考えずに「感動した!」,「超泣けた!」といった感想しか述べられないような動物化した女子高生やらにウケているのだから.
あーいったモノは作品だとか物語といったモノではなく商品であり,マーケティングとして成功したかどうか?や商業的に成功したかどうかが問われるものであり,後に「あんな無茶苦茶な文章は小説ではない」とか「あんなモノは物語ではない」といった風に正しく評価が行われるようなモノではないからだ.
そして,それは同時に我々が楽しむオタク的作品にも言えることだと私は思う.
何も考えずに「超面白いよ」,「泣けるから」と勧めてきて,どの辺りが面白いのかとツッコムとあらすじを延々と教えてくれたり,何でもかんでも「神」と称してみたり……
絵に関して言えば,
会社にしてみれば、少しでも流通さんが安心して受注してくれる内容にしたいです。(中略)ゲンガーを選ぶ側が同じような絵柄の方に依頼するわけだから、ゲンガーにしてみたら、仕事にするには割合はさておき、一定のフォーマットは持っていないと「仕事にならない」部分はあります。(中略)ゲンガーの戦場というのは、エンジンが決まっているボートレースみたいな闘いだと思います。
はうにぶー。:ホームベース気味だっていいじゃない
という風に商業的であることを容認しているし(もちろん商業主義が作家性とか物語と対立するなんて思ってないけれど),正しい評価を下すには,作品の量・速度がありすぎてできやしない.
評価は既にあるもの…として主張する
ここからは今回東方界隈において自ら体験したことを例に挙げて述べるが,
CLP氏:『…というかですね、「原作やってないけど東方描きましたー」ていうのもかなーり反発喰らうんですよ…(まぁ当然ですけど)。』
ん氏:『新参であることを盾にしてみたり、それゆえのクオリティの低さを露呈させて恥じもせずに自己主張してみたりする奴らが排除される』
といった形で,「当然である」とか「古参のクオリティは高い」といった表現を疑問に思わず,また恥ずかしげもなく使ってしまう.いったい何時その”当然”はできたのだろうか?彼らは何をもって「当然」といっているのか?そのクオリティの判断基準は何なのだろうか?……
こういった疑問は事あるごとに感じてしまう.今回の恋空罵倒事件も,「いったい何時我々は他者の文化をそこまでバカにできるほど優れた集団になったのだろうか?」といった疑問である.
結局どちらも後ろ盾となっているのは,集団の持っている共通意識程度のものでしかないように感じる.
変なエリート主義
我々はある種のエリート意識みたいなものを持っている.
「世間で流行っているドラマとか小説なんて…」とか「J-POPとか聞けたものじゃないよ」とか「ブランドとか流行のファッションなんてインチキじゃないか」とか…そういった一般人に対する侮蔑みたいなものを少なからず持っているものである.
こういった差別意識みたいなものは団塊の世代ぐらいで言えば,アルフィーに商業主義音楽とルビを振るような人たちであり,第一・第二世代のオタクたちで言えばSFとロリコンの旗の下に集った人たちだとか,さまざまだ.
彼らはそれぞれ反体制だとか,SF的考証だとかを考えながら(ロリコンは知らないけれど),自分たちの文化について議論していたのだろうと私は思っている.
しかし,我々の文化はどうだろうか?っと振り返ってみると,消費構造も,評価法も,動物化もさして我々が侮蔑している一般人と変わりない.それでも,しっかりと一般人への差別意識だけが残っている…という変な状態…変なエリート主義が蔓延している.
そんな気がする.