ラブライブ!を花田十輝から読む

ラブライブ!で全盛期の花田十輝を垣間見たので、この感動を誰かに伝えたくて書く。

虚実皮膜をゆく花田十輝

現在は、けいおんやらシュタインズ・ゲートやらで原作ファンの反感を買わずに、面白く、まともで、奇をてらったことをしない脚本家として認知されつつある花田十輝
しかし、彼はもともとロックで暴力的で人を驚かすことに注力しているような脚本家であった。


アイドルマスターゼノグラシア花右京メイド隊 La Verite、H2O -FOOTPRINTS IN THE SAND-、宇宙をかける少女、かしまし 〜ガール・ミーツ・ガール〜……


これらの作品は原作ファンの反感を買い、驚きに満ち満ちていて、物語の整合性なんかより視聴者に挑戦状を叩きつけることを主目的としていた。
ゼノグラシアでは原作を大幅に改変し、巨大ロボットとアイドルたちの三角関係を描いて反感を買った。
作品終盤では、巨大ロボットが元カノに「そんなに若い子がいいの?ねぇ捨てないで…」と言い寄られながら、今カノと新鮮なときめきを謳歌するという変な展開も見せていた。

H2Oでは、1クールアニメの11話で、「実は主人公は目が見えていませんでした。今まで描いてきた日常はすべて妄想です」と言い放ち、視聴者の度肝を抜いた。
作品序盤から精霊会議という主人公の妄想が日常のシーケンスの中でシームレスに描写されている作品で、どっからが主人公の妄想で、どっからが現実なのかよくわからない作りになっていた。結局、現実と思われていたシーンも含め「全部妄想でした」という展開になっていた。

宇宙をかける少女では、2クールアニメの後半で、主人公に「“宇宙をかける少女"なんて向いてないなぁ」と言わせて我々に不可視境界線の向こう側を魅せつけた。
作品としての根幹部分の否定、ディスコミュニケーション、伏線っぽいシナリオがまったく伏線として機能しないなど、既存の物語に対するアンチテーゼに溢れていた

そーゆー意味で前クールの「中二病でも恋がしたい」は、ロックな花田十輝らしかったと言える。
作品序盤では中二病であることに対して否定的で、中二病から脱却することが成長であり、良きこととして描かれているが、終盤では「結局世界すべてが中二病だし、成長とかそんなの幻想だ」という結論に行き着いている。

ラブライブ!花田十輝

さて、そんな花田十輝からラブライブ!の1話を見るとどうだろうか?
結論から言えば、主人公たちが直面している危機(廃校)も、語られる思い出もすべて最後の歌とダンスを見せるために用意された虚構ではないか?という話。

この、「ああ、これからいったいどうすれば」「どうすれば」「どうすればいいの?」「(歌)だって可能性感じたんだ、そうだ進め。後悔したくない。目の前に僕らの道がある」のシーケンスに突然突入するところは、どっからが本当にあった話で、どっからが脚色・後日撮り直した(と思われる)シーンなのかさっぱりわからない
まさに虚実皮膜なシーンである。


言ってしまえば、マイケル・ジャクソンのストーリーのあるPVのような作りをしているのではなかろうか?



「いつもjこーゆーことってほのかちゃんが言い出してたよね」「ほのかはいつも強引すぎます」「でもうみちゃん、後悔したことある?」のシーンで描写されるエピソードも説得力低い、でも流れとしては美しく、典型的で理解しやすい。これもPVによくある典型的でベタなシチュエーションである(図上段)。
また、冒頭の「なんだ夢かー(図下段左)」も今までダンスなんてやってなさそうな主人公が突然ダンスのレッスンを始めてたり(下段中央)、わかりやすい対立構図が描かれたり(下段右)……
とにかく作り物っぽさがパない

ラブライブ!で驚きを

ビルディングスロマンで展開に違和感の少ない、けいおん的なお話になるかと思いきや、実は脚色し(どこからが事実でどこからが脚色かよくわからない)、リアリティよりも物語の美しさ・テンポの良さを重視した暴力的な一話であった
今後はどんな展開を見せるのだろうか?
個人的期待を含めて以下に今後ありえる可能性を列挙してみる。

  • 実は主人公たちは廃校なんて状況に置かれてないし、高校生ですらないかもしれない。(根底の否定。H2O)
  • ヒロインが最終的に「私、アイドルに向いてないなぁ」と言い出す。(宇宙をかける少女)
  • 毎話、EDにつなげるためのPV的な作りになり、続きを見たかったらCD買ってね!的展開になる。(あのね商法再来)(2話でいきなり1話でなんの関係もなかったヒロインと一緒にアイドル活動していて、「夏は海にいってときめこうよ!」みたいな話からEDにつながる。)


どんな展開になるのかわくわくが止まらない。