最近のオタクは〜という話

今回は,いろいろな絵師とその作家性 - WebLab.otaいろいろな絵師とその作家性 その2 - WebLab.otaと書いてきたことについて整理しつつ,今後やっていかなければならないこと・やろうと思っていることについて書く.

最近のオタクは〜という話

先の2つのエントリは要するに「最近の若者は〜」というエジプトの壁画にも書かれていて,耳が痛くなるほど聞かされてきた文言であり,平易な思いつきである.
「最近のオタクは軽い・浅い」だとか,岡田氏にオタク・イズ・デッドと言われたりだとか,よく世代論で語られる「旧世代のオタクと新世代のオタクの差異」みたいな議論の具体的な事例の一つとして書いたものである.


簡単に記せば,「昔のオタクと今のオタクは(悪い意味で)違う」よね→「流行の絵柄から見れば,没個性化が進んだ」よね,ということを書いたに過ぎない.

今後もこの「昔のオタクと今のオタクは(悪い意味で)違う」という考え方に説得力・納得力を持たせるためのお話を書いてゆくつもりである.


さてさてさて今回も,先のエントリに対する意見をまとめてみる.(主流な意見は3種類あるようだ)

ゲンガーの戦場というのは、エンジンが決まっているボートレースみたいな闘いだ

みやま零氏からトラックバックを頂いた.(はうにぶー。:ホームベース気味だっていいじゃない
本議論で話題にしているゲンガーの側からの意見として面白い.少し引用するが

会社にしてみれば、少しでも流通さんが安心して受注してくれる内容にしたいです。(中略)ゲンガーを選ぶ側が同じような絵柄の方に依頼するわけだから、ゲンガーにしてみたら、仕事にするには割合はさておき、一定のフォーマットは持っていないと「仕事にならない」部分はあります。(中略)ゲンガーの戦場というのは、エンジンが決まっているボートレースみたいな闘いだと思います。

要するに「消費社会で売れるものを作ろうと思ったら,均一化されるのは仕方がないじゃないか」という話だと理解した.(商業主義と作家性の対立として理解されているのか…)
市場がある一定のフォーマットで作られた商品を要求していて,原画家はそれにある程度従わなければならず,そのフォーマットの範囲内で鎬を削っているのだという意見である.


これに似たような意見としては,

エロゲの絵やラノベの萌え絵は、誤解を恐れずに言えば「性欲を喚起する」という大きな目的があるためだと。
(中略)
単体の絵、あるいは物語を語るツールとしての絵ならば個性的でクセの強い絵も、当然「あり」だと思えるわけですが同じ絵が、事エロゲ用途となると「使えないからNG」になってしまいます。
いろいろな絵師とその作家性 - WebLab.otaのコメントより

これも要するに市場が一定のフォーマットで作られた商品を要求しているのだから…という意見である.


この見解には概ね同意する.こういった構造的な問題があるから均一化・没個性化しているのだろう.
そして,ココが問題なのだと思う.何故なら,今のオタクたちが,もっと個性や才能なんか”も”要求する集団であったならば,こういった事態にはならなかっただろうと思うからだ.

ミクロな戦いは個性なのか?

前回も引用しているが

http://d.hatena.ne.jp/sawarasoku/20071108/1194469036
どんなに萌え系の美少女が記号化されても、その記号(萌え系絵師の書く絵)は手書きの記号なので(この言い方は言葉の意味を違えてるけどw)、筆跡鑑定を行えるような人物から見たら全然別物なんだよ、という話。

はてな
その三人の絵柄の共通部分を抽出して「平均値的萌え絵」を取り出すことは可能かもしれないが、それはその三人のうちの誰の絵でもない別物だ。

この二つは要するに,「萌え絵はすべて違う作家によって描かれているのだから全然別で個性があるだろう」という主張である.
確かに私も多少絵を描く人間だし,彼らの描く絵にそれぞれ(微妙な)違いがあることは見て取れるし,絵師の判定も結構できると思っている.しかし,その微妙な差を個性とか作家性といったものとして認識できるか?と言われれば,できない.

みやま零氏の表現を使うならば,同じエンジン,決められた排気量,定められたプロペラの中で鎬を削っているゲンガーと,宇宙旅行を実現させているスペースシャトルと,地上最速を目指しているF1と,なんであんなものが海に浮かべるのか不思議な豪華客船と…の違いで個性を争っている作家とでは明らかに違うだろう.
そして,前者を主に消費している今のオタクと,後者を主に消費していた昔のオタクとでは,違いがあるだろう…という話である.

過去の評価法を現代に持ち込めるのか?という疑問

nix in desertis:「多様性」は簡単に使えない言葉だと思う判子絵師は罪か?(そもそもオタ界隈の談義に於いて「芸術の歴史」を見つめている人間などいるか、と言う話) - 雑記・夢幻泡影なんかで語られていること

判子絵師は罪か?(そもそもオタ界隈の談義に於いて「芸術の歴史」を見つめている人間などいるか、と言う話) - 雑記・夢幻泡影
そもそも現代美術以前の話、権力者達の肖像画を描くのは画家の仕事であった。
肖像である以上ピカソ宜しくの抽象的表現はご法度に近く、専ら当時の価値観で美しい、と思われるものに均一化することこそが重要であり、至上であった。
つまりどう言う事かと言うと、「均一化されすぎていて,誰が誰だかわからないし,誰が描いても同じように見えるし,誰が描いていてもあまり気にならないし,誰の描いたキャラであっても必要十分で似通った可愛さ・綺麗さ・魅力を持ち合わせている」ような絵が一番好まれた。

要するに,「均一化・没個性化することにも意味がある」という主張である.


しかし,美術史については詳しくないが,この均一化・没個性化することが評価されていたのは,個性だとか,自我だとかが”発見”される前の話なんじゃないか?とにかく,評価基準やその背景にある考え方が違うのだから,同じような評価が過去に行われていたからといって,それを現代に持ち込んで通用するとは思えない.(若しくはその評価が現代でも通用することを検証しなくてはならないと思う.)


例えば,文学において,”私”を発見したことによって,近代文学が生まれて,それまでの文学が古いものになり,「”私”を書かねば文学に非ず」といった評価法が主流になった.もちろん近代以前に書かれた文学(古い文学)作品が評価されなくなったわけではなく,これから文学を志す人間は”私”を書かなければ評価されなくなっただけである.
また,絵画でも,印象派の画家たちは,「画家独自の技法を生み出さないと画家に非ず」といった評価法が主流になり,他人の技巧を真似るだけでは「贋作画家」と呼ばれるようになる.もちろん印象派以前の画家たちの評価がなくなったわけではなく,これからは「個性とか作家性を主に評価しよう」といった考え方が”近代式”なだけである.


つまり,均一化・没個性化することは近代以前ならいざ知らず,現代で評価されるものではない…というのが私の考えである.(ビジネスとか,他の畑でなら評価できそうだけど)


しかし,本議論は別に評価法の正当性について検証するものではないので,当初の目的である「昔のオタクと今のオタクは(悪い意味で)違う」という考え方に無理やり戻すならば,昔のオタクは現代式な評価法で作家や作品を評価しているが,今のオタクは近代以前の感性で作家や作品を評価している…と整理できるかもしれない.