「ゼロ年代の想像力はWeb2.0だろう」という考え方

SFマガジンに連載中の「ゼロ年代の想像力」をパラパラと読んで,すごい違和感を感じたのでそれを含めて書きます.
しかし,この連載に対しての違和感や評を書くことは既にいろいろとやられているので,適当に流す程度にするつもりです.それよりも決断主義に代わる価値観としてWeb2.0(というかアルゴリズム)があるのではないか?といった考え方を書くつもりです.
また,ゼロ年代の想像力を読んでいない方にも読める形で書きます.

はじめに

ゼロ年代とは2000年代のことを指す言葉である.そして「ゼロ年代の想像力」とは,宇野常寛が現在SFマガジンで連載中の評である.
宇野常寛はこの「ゼロ年代の想像力」で,90年代の想像力(セカイ系)を埋葬し,ゼロ年代の想像力決断主義)を正しく理解し,そして次の10年の想像力を導き出そうとしている.しかし,未だ連載では決断主義の理解半ばなので,次の10年の想像力に関しては触れない.

セカイ系

彼はこの連載の中で,90年代の想像力であるセカイ系を,”価値観の宙吊りに耐える立場”であるとし,例として,日本でポストモダン化が完了した1995年ごろから現れだした,「動物化した人(たとえば軽いノリで援助交際をする女子高生)」や「引きこもり(エヴァンゲリオン)」や「小林よしのり」を挙げている.
彼らはそれぞれ,「生きる意味(価値観)を求めるのはやめ,終わりのなき日常をまったりとやり過ごすことで,快適に生きようとする人たち」「自分が価値観を選ぶことで,誰かの価値観を傷つけてしまう事を恐れて,価値観を選ぶことができなくなってしまった人たち」,そして,「わかりやすい正義(価値観)に安易に飛びつかず,しかしトライ・アンド・エラーを繰り返しながら対象(価値観)との距離を検討し続ける人たち」となる.


この理解は,私の理解とも概ね一致している.
イデオロギーの時代が終焉し,70年代ごろからポストモダン化が始まり多くの価値観(フィクションでいうならSFとかファンタジーといった共同体の中だけで共有される価値観)が認められるようになり,80年代〜90年代にかけてさらにポストモダン化が進み,共同体を細分化した価値観,例えばカルト的な宗教であったり個人主義とか個性とかが認められだした.そして,95年には日本でのポストモダン化は完了し,若者は,自分がどの価値観に殉ずればよいのか解らなくなった


こういった時代認識をすると,セカイ系と呼ばれる若者が,自分たちに正しい価値観を教えてくれない社会に対して,半ば逆恨みに近いのだが,「こんなカルトで不透明な社会での自己実現は信じられない」といった考えに至るのも解らなくない.

決断主義

上述してきた認識の上で,宇野はゼロ年代に入って”価値観の宙吊りに耐える立場”であったセカイ系から,”究極的には無根拠でも,中心的な価値を選びなおす立場”である決断主義が現れたとしている.

格差社会意識の浸透などにより,90年代後半のように引きこもっていると,殺されてしまうというサバイブ感覚が社会に広く共有されていくことになる.

彼はこれの例として,フィクションならば,「バトルロワイヤル」,「DEATH NOTE」,「コードギアス」,「Fate/stay night」,「仮面ライダー龍騎」また,「ドランゴン桜」,「女王の教室」などを挙げている.そして,社会的な事件としては「9.11」や「小泉純一郎による構造改革」なんかを挙げている.


彼が例として挙げた一連のフィクションについても,違和感を感じずにはいられないけれど,「9.11」や「構造改革」まで,”究極的には無根拠でも,中心的な価値を選びなおす立場”だったとは…?
確かにポストモダン化が完了した日本には,既に”正しい価値観”が無くなっているとするならば,小泉さんが選択した価値観もまた”究極的には無根拠”なのかも知れないが…思いたくないなぁ.(彼は郵政民営化について90年代初頭から訴えていたように記憶していますが)
しかし,「9.11」を起こした彼らの世界ではまだポストモダン化も完了していない*1し,始まってすらいない気もする.そんな彼らの決意を”究極的には無根拠”であるとする感覚が私には理解できない.また,彼らが何度も繰り返している”聖戦(テロ)”と今回の”聖戦(テロ)”が,一方は”根拠”があり,一方が”無根拠”であったとする違いも解らない


また,この決断主義ゼロ年代に入ってからの想像力なのかどうかも疑問だ.95年にポストモダン化が完了したのであれば,”究極的には無根拠でも,中心的な価値を選びなおす立場”と”価値観の宙吊りに耐える立場”は95年当時にあったんじゃないか?ただ,目新しさで,セカイ系の人々に注目が集まっただけで…*2
*3

とにかく彼の意見はわからないところが多い.

ゼロ年代の想像力アルゴリズム

これ以上,決断主義に関して長々と批判するのは面倒なので,次の機会に譲るとして,そろそろ本題に入りたい.


確かに私も,ポストモダン化が完了し「信じるべき価値観」が無くなってしまった状況で現れたセカイ系という考え方の次にくる考え方は,やはり価値観を再構成しようとする考え方だと思う.この点では決断主義を導き出した宇野と変わらない.
しかし,私は決断主義とは違った形で価値観の再構成を試みようとしている集団を知っている.
それはずばりGoogleページランクはてなブックマークだ.


Googleはてなは新聞やテレビなどの集権的メディアとは違う形で価値観を作り上げようとしている.
新聞やテレビは所詮編集者やディレクターといった個人,もしくはそういった人たちで構成される共同体の価値観で作られた記事であり番組を垂れ流しているメディアだ.彼らが面白いと思ったネタを,彼らが重大ニュースだと考えたニュースが流れているだけに過ぎない…こういった他人(社会・権力)の価値観が信用できない状況ポストモダン化が完了したことにより訪れた.


そこでGoogleはてなは,Web2.0的な考え方,つまり集合知を利用するアルゴリズムを考え出した.
”良いページにリンクされているページは良いページ”,”多くブックマークさらた記事は良い記事”…この単純なアルゴリズムを延々と計算させることで,良いページや良い記事といった価値観を生み出そうとしているわけだ.そしてこの価値観はある程度支持されている.Googleが創業から8年ぐらいで”怪物”とよばれる会社になったのだから.


ポストモダン化が完了し,個人や特定の共同体が発信する価値観が信用を失い,セカイ系決断主義といった考え方が生まれ,そして,他者の押し付ける価値観でも,自分個人の中に存在する価値観でもなく,集合知を利用するアルゴリズムを開発し,それによって導き出された価値感を素直に受け入れる人々が生まれた.


90年代の想像力がセカイ系と呼ばれる考え方ならば,ゼロ年代の想像力はこの集合知による価値観の再構成とするべきだろう.
こう考えたほうがなんとなく自然な気がする.



参考
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/2_0/2007/06/5_c5bd.html
http://www.oresen.net/mt/2007_06/10/post_836.php
http://www.geocities.jp/wakusei2nd/32a.html
2007-05-31
「ゼロ年代の想像力」から抜け落ちているもの(1)〜「進軍ラッパ」を吹きならしたドラゴンアッシュ〜 - 想像力はベッドルームと路上から
http://tenkyoin2.hp.infoseek.co.jp/wakusei2nd.html
http://d.hatena.ne.jp/sjs7/20070623/1182607511
http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20070803/1186171171
http://www10.ocn.ne.jp/~fstyle/text/sekaikei.htm

*1:ポストモダン化ってのは高度消費社会的な人格類型から始まるんじゃないのか?

*2:社会が信じられなくなったからといって,全員が全員セカイ系になった訳でなし.むしろ何か(家族とか会社とか)を信じて生きている人のほうが多かろう.

*3:そんなに決断主義が蔓延しているならば,進学率とか就職とか自殺者といった統計データでも示してくれれば説得力もあるのだろうが…